第十二章 極東国際軍事裁判(東京裁判)



○極東国際軍事裁判(東京裁判)の不当性につき加筆することを要する



東京裁判では、戦争に携わった日本の政府や軍部の中枢にあった人々など二十八名が、アジアを侵略し、支配することを企み、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの侵略戦争≠ひき起こした黒幕として、戦争犯罪人(A級戦犯)のレッテルを貼られて裁かれた。そして判決を受けた二十五名(残り三名のうち二名は判決前に死亡、一名は精神異常と判断され裁判から除外された)全員が有罪とされ、うち東條英機はじめ七名が絞首刑に処せられた。
しかし以下のように、東京裁判とは、裁判の名に値しない不当きわまりないものであった。

@被告人が適当に選ばれた

東京裁判の被告となった二十八名は、侵略戦争の「共同謀議」に加わった、つまり協力して悪事を企み実行した、あるいはこれに同意した、との理由で起訴されたものであった。しかし、この二十八名の関係は、共同謀議などとは程遠いものであった。

共同謀議どころか、皮肉なことには、二十八名のA級戦犯の中には、政敵として争い、政権獲得に成功した者もいれば、これを倒すために熱心に努力した者もいる。また、青年将校に突き上げられて、昭和維新を呼号し、暴力革命の先頭に立った者もいれば、これにあくまで抵抗して議会主義を守ろうとした者もいる。自由主義を貫くために政治生命をかけた者、ナチズム、ファシズムに傾倒して、民族主義、全体主義をもって国政を立て直そうとした者、反英米派もいれば、親英米派もいたのである。……二十八人の被告の顔ぶれから判断しても、そこには何ら共通性、一貫性は見出されない。彼らは、もとより同志でもなく、また徒党を組んだのでもない。
(田中正明『パール判事の日本無罪論』八十六頁)

それもそのはず、被告人二十八名は、けっして厳密な調査によって選定されたものではなく、一九二八年から一九四五年までの間に日本の指導的立場にあった二十八名を適当にピックアップしたものだったのである。

マッカーサーから「政治的戦争犯罪人」のリストを作るよう命じられたソープ准将は、部下に人選を命じたが、ソープもその部下も日本のリーダーについての知識が乏しかった。そこで、とりあえず日本人名録や歴代内閣の閣僚名簿から大物と思われる人物をピックアップしたところ、その数は三百名以上になってしまった。その後なんとか二十八名に絞り込んだにもかかわらず、被告人発表の直前、ソ連から、その中に含まれていなかった二名(重光葵梅津美治郎)を加えてほしい、との強い要求があった。ところが、すでに工事が完成していた法廷には被告席が二十八人分しか用意されていなかったので、この二名を加えると定員オーバーになってしまう。そこで、本来起訴されるはずだった二名(真崎甚三郎阿部信行)が起訴を免れた。

被告人二十八名はこうして選ばれたのであって、共同謀議に加わったか否かを一人ずつ調べて選定されたわけではないのである。
被告人の一人は、この共同謀議という言いがかりに対して、冷笑的な言葉を残している。

「軍部は突っ走ると言い、政治家は困ると言い、北だ南だと国内はガタガタで、おかげでろくに計画もできずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」
(児島襄『東京裁判』(上)一一九頁)

A罪刑法定主義に反する

近代法には、罪刑法定主義という大原則がある。これは、いかなる行為が罪であり、その罪を犯せばどのような刑に処せられるか、あらかじめ法で定められていない限り処罰されることがあってはならない、というものである。つまり「法には触れてないけど、とんでもない悪者だから、とにかく処罰してしまえ」ということがあってはならないのである。そのようなことを認めてしまっては、民衆を生かすも殺すも権力者の気のおもむくまま、ということになりかねず、一般市民の平穏な生活、あるいは人権が保障されないからである。

東京裁判を行うにあたって、その手続きを定めた極東国際軍事裁判所条例がつくられた。その第五条で、東京裁判では「平和に対する罪」や「人道に対する罪」などが裁かれるものと定められた。「平和に対する罪」とは、侵略戦争を計画、開始、遂行したことを犯罪とするものであり、「人道に対する罪」とは、たとえばナチスドイツが行ったユダヤ人の大量虐殺のような非人道的な行為を犯罪とするものである。

ところが、そのような行為を犯罪行為として定めた国際法などは存在せず、これらの罪は法的根拠のないものであった。要するに、東京裁判とは、国際法に定められた犯罪行為を行った戦犯を裁いたものではなく、連合国側が、自分たちをさんざん苦しめた日本の指導者に報復をするために、国際法上存在しない罪名をでっち上げて裁いたものだったのである。

また、冒頭の罪刑法定主義の説明の中で「あらかじめ法で定められていない限り処罰されない」と記述したように、このように後になってから新しい法をつくって処罰することも、近代法の大原則では禁じられている(事後法処罰の禁止)。

たとえば、次のようなケースを考えていただきたい。

現在タバコを吸うことは犯罪ではないので、時に非難されることはあっても、多くの人々が平気でタバコを吸っている。ところが、ある日突然「タバコを吸った者は三年の懲役に処する。以前にタバコを吸ったことのある者も同様とする。」という法律が作られて、「以前は吸っていたが、体に悪いから今はやめた」という者まで、その法律によって処罰されてしまう。

常識的に考えれば、きわめて理不尽である。理不尽であるがゆえに、このような事後法による処罰の禁止ということが近代法の大原則となっているのである。ところが、その理不尽なことが東京裁判では行われていたのである。

たとえば、前述のように、戦争中のわが国の政府や軍部の要人が、侵略戦争を計画、開始、遂行したものとして「平和に対する罪」に問われた。

今の感覚からすれば、戦争を始めること自体が凶悪な犯罪であるかのように感じられるが、しかし国際法上は、戦争を始め、遂行すること自体を犯罪とする規定は存在せず、現在に至ってもなおそのような国際法は存在しない。ところが東京裁判では、これを犯罪とする「法」が、突如、新たに作られ、これに基づいて、行為の時点では合法であった行為が犯罪行為として裁かれたのである。つまり、東京裁判では事後法処罰の禁止という近代法における大原則が守られていなかったのである。

もっとも、こうした主張に対する反論として、パリ不戦条約を根拠に「戦争は以前から犯罪とされていた。したがって、平和に対する罪は国際法に基づくものである。」との主張もある。東京裁判でも、この条約が処罰の根拠として持ち出された。

パリ不戦条約とは、一九二八年、米英日独仏など十五ヶ国(のちに六十三ヶ国が参加)で調印された不戦条約である。同条約では、国際紛争を解決するために戦争に訴えてはならず、国家の政策の手段として戦争を放棄すべきことが規定されていた。そのため、たしかに同条約によって戦争が犯罪行為とされたようにも見える。

しかし、同条約には条約違反に対する罰則は設けられていなかった。つまり、同条約に違反したからといって、同条約を根拠に開戦国、あるいはその指導者を処罰することなどできないのである。

しかも、同条約では自衛のための戦争までは禁じられていなかった。
条約の提案者である米国務長官ケロッグは、米国議会でこう述べている。

アメリカの作成した不戦条約案の中には、自衛権を制限ないし毀損するような点は少しも存しない。自衛権はすべての独立国に固有のものであり、またあらゆる条約に内在している。各国家はいかなる場合においても、また条約でどのように規定されていても、攻撃もしくは侵略から自国の領土を防衛する自由をもち、自衛のために戦争に訴える必要があるかどうかは、その国のみがこれを決定することができるのである。正当な理由ある場合には、世界はむしろこれを賞賛し、これを非難しないであろう。
(日本外交学会編『太平洋戦争原因論』四九一頁 一部要約)

要するに、同条約は自衛戦争まで禁止したものではなく、そしてある戦闘行為が自衛戦争であるか否かはその国自身が決めることができる、というのである。つまり、ある国が「これから侵略戦争をするぞ」とは言わずに、「これは自衛のための戦争である」との大義名分さえ掲げれば、同条約に抵触することはないのである。

パリ不戦条約とは、その程度の、法的にはほとんど意味のない条約だったのであり、各国ともその認識のもとに同条約に調印しているのである。したがって、パリ不戦条約が東京裁判の根拠だとする主張も不当なのである。

B裁判の公平性や適正手続が確保されていなかった

東京裁判では、検察側は当然ながら連合国側の国々の代表であったが、判事までも、十一人全員連合国側の国々あるいはその自治領などの代表であった。その一人、フィリピン代表のハラニーヨ判事などは、いわゆる「バターン死の行進」の生存者であった。つまり、日本軍によって辛い目に遭わされた張本人が裁判官として日本を裁こうというのであるから、公正な裁判など期待できるはずはないのである。現に彼は、東京裁判の判決に対しても「生ぬるい」との不満を漏らしている。この一事をもってしても、連合国側が最初から裁判の公平性を確保する意思などなかったことが明らかであろう。

ついでながら、日本軍による残虐行為として知られる「バターン死の行進」は、けっして捕虜に虐待を加えるために行われたものではなかった。

フィリピンのバターン半島を制圧したわが国のもとに、七万を越えるアメリカ兵やフィリピン兵が投降してきた。予想をはるかに上回る大量の捕虜を護送する手段もなく、やむなく鉄道のあるサンフェルナンドまで約六十キロの距離を歩かせたのである。日本軍はわずか約三万。当然ながら十分な食料もなく、炎天下を延々と歩かされるのは辛いことではあろうが、それは日本兵も同じであった。しかも、ほとんど手ぶらの捕虜とは異なり、日本兵は重装備をしての移動である。多くの日本兵が「捕虜のほうがよっぽど楽だ」との印象を抱いていたほどであったという。これを捕虜虐待というのであれば、わが国は自国の兵士をも虐待していたことになろう。

しかも、サンフェルナンドから捕虜収容所に近いカパスまでの約四十キロは鉄道で移動している。つまり、けっしてわざわざ捕虜を虐待するために行進させたのではないのである。

閑話休題

しかも、極東国際軍事裁判所条例第十三条では「本裁判所は証拠に関する専門技術的規則に拘束されることはなく、本裁判所で証明力があると認めるいかなる証拠をも受理するものとする。」と規定されていた。通常の裁判ならば、証拠として提出されたものについて、本当に証拠としての能力を持つものかどうか厳密に調べられ、たとえば単なる伝聞や噂話などは証拠としての能力を持たないものとして却下されるのが普通である。ところが東京裁判では、そのような専門技術的規則に拘束されることなく、裁判所が証拠としての能力があると認めさえすれば、いかなる証拠も受理する、というのである。その結果、扶桑社(二一五頁欄外)が指摘しているように、検察側のあげる証拠は単なる伝聞や噂話であってもそのまま採用されたことが多かったのに対し、弁護側の申請する証拠調べはことごとく却下された。中立であるべき判事が原告側の身内であれば、適正な裁判手続きの保障された公平な裁判など期待できるわけはないのである。

たとえば、東京裁判では、日本が行った残虐行為として、第七章でも触れた「南京大虐殺」が突如持ち出された。裁判では、この南京大虐殺を証言するため多くの証人が召集されたが、その証言のほとんどは噂話や伝聞などで、通常の裁判ではとうてい証拠として採用されるはずのないものであった。しかも、普通の裁判では偽証罪というものが存在し、証人が事実に反する証言をすれば罰せられるのであるが、東京裁判ではそれすらなく、証人がいくらでもウソをつくことができたのである。

証人の一人、南京安全区国際委員会の委員であったマギー牧師は、南京での日本軍の残虐行為について、こう証言した。

日本軍の暴行はほとんど信用することのできないほどひどいものでありました。最初その日本軍によりまする中国人の殺戮が始まりましたのは、いろいろな方法で行われたのでありますが、まず最初には日本軍の兵隊が個々別々にあらゆる方法によって中国人を殺したのでありますが、その後になりまして三十名もしくは四十名の日本軍が一団となって、その殺戮行為を組織的にやっていったのであります。これらの日本兵はその手中にまったく中国人の生命すなわち死活の権を全然にぎっておったように思われたのであります。間もなくこれらの日本軍によりまする殺戮行為はいたるところで行われたのであります。しばらくいたしますると南京の市内にはいたるところに中国人の死骸がゴロゴロと横たわっておるようになったのであります。これらの殺戮行為は、あるいは機関銃により死んだ者もあり、その他の方法によって殺されたのでありますが、時々中国人が列を作って引っ張られていく、そうして殺されるのを私は目撃したのであります。
(洞富雄編『日中戦争史資料8』八十七頁)

この後も延々と事細かに日本軍の残虐行為について証言したが、そのマギーに対し、ブルックス弁護人が、マギー自身はそういった不法行為や殺人行為などの現行犯をどれくらい目撃したのか、と質問したところ、マギーは、ただ一件だけだと答えている。しかもその一件というのも、日本兵がある中国人に誰何したところ、急いで逃げ去ろうとしたために殺された、というものであった。

当時、日本軍は便衣隊に悩まされていた。便衣隊とは、軍服ではなく平服を着た中国人ゲリラである。一般民間人になりすまして日本兵を油断させておきながら突如攻撃をしかける、というのが彼らの常套手段であった。したがって、「誰何しただけで逃げ出すのは怪しい。便衣隊ではないか」と判断してこれを殺害してしまったのは、やむをえないことであろう。

それはともかく、「いたるところで行われた」殺戮行為をたった一件しか見ていないというのは、あまりにも不自然である。しかもマギーは、こう答弁したことで、「時々中国人が列を作って引っ張られていく、そうして殺されるのを私は目撃したのであります。」というみずからの証言がウソだと白状してしまっているのである。

通常の裁判ならば、このようなバカバカしい証言は相手にもされないところである。しかし東京裁判では、このような証言の積み重ねで「南京大虐殺」が史実として認定された。そして、親中派として知られ、南京攻略に際しても全軍に軍規の徹底を命じた松井石根被告が、南京大虐殺の責任者として処刑された。

裁判の公平性や適正手続が確保されていなければ、このような理不尽な結果となってしまうのである。

フランス代表のベルナール判事は、判決に際して次のような個別意見を提出している。

条例(=極東国際軍事裁判所条例 引用者註)は被告に弁護のために十分な保障を与えることを許していると自分は考えるが、実際にはこの保障は被告に与えられなかったと自分は考える。多くの文明国家でそれに違反すれば全手続きの無効となるような重大な諸原則と、被告に対する訴訟を却下する法廷の権利が尊重されなかった。
(菅原裕『東京裁判の正体』一一八頁)

要するに、適正手続きが保障されていないような裁判は、文明国家ではその裁判自体が無効にさえなりうるものなのである。しかし東京裁判では、裁判の公平性も適正手続きも保障されてはいなかった。つまり、東京裁判はけっして文明的な裁判などではなかったのである。

C裁判批判が封殺されていた

このようなデタラメな裁判であっても、せめて国民に広く公開され、批判が認められていたならば、裁判の不当性を非難する声が上がり、裁判の適正化を図るよう努めざるを得なかったであろう。

しかし当時は、言論の自由を保障したポツダム宣言や、裁判と同時期に成立した日本国憲法に違背して、GHQによる検閲が平然と行われ、東京裁判に対する批判は認められていなかったのである。

また、裁判所の傍聴席には多くの日本人もいたが、連合国側に不利な発言があれば日本語への通訳が止められることもあった。たとえば、ブレークニー弁護人が
「真珠湾でのキッド提督の死が殺人罪になるのなら、我々も広島に原爆を投下した者の名を挙げる事ができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も我々は承知している。……原爆を投下した者がいる!この投下を計画し、その実行を命じこれを黙認した者がいる!その者達が裁いているのだ!」
と追及する発言をしたところ、通訳が途中で打ち切られた。日本人の大多数は、東京裁判の内容を正確に知ることすらできなかったのである。

D連合国側の戦争犯罪は問われなかった

東京裁判が国際法に基づく正当かつ公平な裁判であるならば、戦勝国・戦敗国を問わず、その戦争犯罪が追及されなければならないはずである。にもかかわらず、追及されたのは日本の戦争犯罪のみであり、戦勝国側の戦争犯罪が追及されることはなかった。

前述のように、東京裁判では「人道に対する罪」という犯罪が新たに持ち出された。連合国側は、ドイツと同様に日本をこの罪で裁くことで、「連合国(米英)=正義、枢軸国(日独)=悪」という図式を確立しようとしていたのである。

そこで出てきたのが、さきにも述べた「南京大虐殺」である。ナチスによるユダヤ人大量虐殺と同様の大虐殺を、日本は南京で行った、と追及することで、日本をドイツと並ぶ巨悪であるとアピールし、連合国側の行動を正当化しようとしたのである。しかし、その「南京大虐殺」なるものがきわめて信憑性に欠けるものであることは、すでに述べたとおりである。

むしろ、この「人道に対する罪」なるものが国際法に基づくれっきとした戦争犯罪であるならば、アメリカが日本に対して行った非人道的な暴挙こそ追及されるべきであろう。たとえば、東京はじめ日本各都市への空襲、そして広島・長崎への原爆投下。このような女性や子供をも巻き込んだ無差別大量虐殺こそ、同罪によって裁かれるにふさわしい、ホロコーストに匹敵する「人道に対する罪」である。にもかかわらず、東京裁判ではこのような連合国側の「人道に対する罪」は一切問われることはなかったのである。

また、東京裁判では「殺人の罪」という犯罪が持ち出された。これは、戦争のさなかに敵を殺すことは犯罪ではないが、戦争が始まる前、つまり宣戦布告が行われる前に人を殺害することは許されていない、だから犯罪だ、というものである。要するに、宣戦布告の前に行われた真珠湾攻撃の責任者をこの「殺人の罪」によって罰しようとしたのである。

しかし実は、真珠湾攻撃よりも前に、アメリカは、宣戦布告をすることなく、また警告さえ発することもなく、公海上でわが国の潜水艦を撃沈しているのである。

わが国が真珠湾を攻撃したのはホノルル時間の十二月七日午前七時五十五分である。それより一時間十分前の午前六時四十五分、アメリカの軍艦ワードは日本の潜水艦を発見し、砲撃を開始した。同艦は六時五十四分、海軍司令官に宛て「本艦は防衛水域で行動中の潜水艦を砲撃し爆雷を投射せり」と打電し、その旨を報告している。そして七時六分、海面に黒い油の泡を発見し、潜水艦の撃沈を確認して、爆雷攻撃を中止した。
(実松譲編『現代史資料(35)太平洋戦争(二)』所収、「ヒューウィット調査機関提出書類第七五」四〇九頁参照)

つまり、大東亜戦争はわが国の真珠湾攻撃で始まったのではなく、アメリカによる日本潜水艦撃沈によって、すでに火ぶたが切られていたのである。

したがって、真珠湾攻撃による「殺人の罪」が裁かれるのであれば、それよりもさらに前に行われた潜水艦撃沈による「殺人の罪」もまた裁かれなければならないはずである。しかし、東京裁判で裁かれたのは、真珠湾攻撃での「殺人の罪」だけであった。それどころか、潜水艦撃沈は歴史からも消し去られ、日本は「真珠湾をだまし討ち≠オた卑怯な国」だというレッテルが貼られ、今にいたっているのである。

以上説明したほかにも、数多くの問題点を東京裁判は抱えている。

要するに、東京裁判とは、最初から国際法に基づく正当な裁判を行おうという意図などなく、敗戦国日本に対して「極悪国家」というレッテルを貼ることで連合国側を正当化しようという意図で行われた単なる政治的キャンペーンであり、かつ敵国日本の指導者に対する報復処刑を正当化するために行われた裁判ごっこ≠ノすぎないのである。

このようなデタラメな裁判であったがゆえに、アメリカやイギリスからも非難の声が上がった。

ロバート・A・タフト(アメリカ上院議員)
「勝者による敗者の裁判は、どれほど司法的な体裁を整えてみても、決して公正なものではありえない。」
(リチャード・マイニア『勝者の裁き』九十六頁)

モーン卿(イギリス)
「チャーター[極東国際軍事裁判所条例]は決して国際法を規定したものでもなく、また戦争犯罪というものを規定したものでもない。ただたんに裁判にかけられた僅かな人たちを裁くためにのみつくられたチャーターであった。」
(菅原裕『東京裁判の正体』四十三頁)

しかも、第三者ばかりではなく、この裁判に携わり、日本を追及し、あるいは裁いた人々さえも、東京裁判を疑問視する発言を残しているのである。

東京裁判の責任者ともいうべきマッカーサーは、自伝の中でこう告白している。

占領中に経験したことで、極東国際軍事裁判の判決を実行に移すという義務ほど私が懸念したものは、おそらく他にあるまい。

私は戦争中、捕虜や被抑留者に残虐行為を加えたり、それを許したりした敵の現地司令官、その他軍関係者に対する刑罰は承認したことがある。しかし、戦いに敗れた国の政治的指導者に犯罪の責任を問うという考え方は、私にはきわめて不愉快であった。そのような行為は、裁判というものの基本的なルールを犯すことになる、というのが私の考えだった。
(ダグラス・マッカーサー『マッカーサー回想記(下)』一八九頁)

また、主席検事として日本追及の急先鋒にあったキーナンも、こう告白している。

東京裁判はいくつかの重大な誤判を含むのみならず、全体として復讐の感情に駆られた、公正ならざる裁判だった。

ウェッブ裁判長にいたっては、東京裁判が始まる前(一九四五年六月二十六日)からすでに、オーストラリア外務省に宛てた書簡の中でこう述べている。

国際法に基づく厳密なやり方をあきらめて、特別法定で蛮行ともいえる見世物的な公開裁判を行うべきではない。
(『朝日新聞』平成七年二月八日付)

不当と感じながらも、裁判長という立場ゆえに、あえて異を唱えることなく粛々と裁判を進めたのであろうか。

このように、東京裁判の責任者、主席検事、裁判長のいずれも、東京裁判が不当なものであったことを認めているのである。

ほかにも、マッカーサーから「政治的戦争犯罪人」のリストを作るよう命じられたソープ准将は、後にこう告白している。

敵として見た場合、トウジョウをはじめ、ただ怒り、正義その他の理由だけで、即座に射殺したい一群の連中がいたことは、たしかである。しかし、そうせずに、日本人に損害をうけて怒りにもえる偏見に満ちた連合国民の法廷で裁くのは、むしろ偽善的である。とにかく、戦争を国策の手段とした罪などは、戦後につくりだされたものであり、リンチ裁判用の事後法としか思えなかった。
(児島襄『東京裁判(上)』七頁)

また、オランダ代表のベルト・レーリンク判事は、こう語っている。

私個人としては、戦争の勝者が新たに刑法を作り上げ、それにもとづいて敗者を処罰する特権はないと確信しておりました。何となれば、そうした勝者の勝手気ままを主張することは、危険な前例を作ることになり、その後に戦争の勝者が憎むべき敵を戦争犯罪人として抹殺する機会を与えるおそれがあるからです。
(細谷千博他編『東京裁判を問う』二二四頁)

十一名の判事の中で唯一の国際法学者であり、ただ一人東京裁判に一貫して反対しつづけたインド代表のラダビノッド・パール判事は、被告人全員無罪を訴えた。そして、東京裁判の不当性についてこう断ずる。

勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従っていわゆる裁判を行うことは敗戦者を即時殺戮した昔とわれわれの時代との間に横たわるところの数世紀にわたる文明を抹殺するものである。かようにして定められた法律に照らして行われる裁判は、復讐の欲望を満たすために、法律的手続を踏んでいるかのようなふりをするものにほかならない。それはいやしくも正義の観念とは全然合致しないものである。
(『パール判決書(上)』二六八頁)

このように、東京裁判とは、正義の観念とは全然合致しない「リンチ裁判」であり、「文明の抹殺」ともいうべき蛮行なのである。

今なお数多くの政治家やマスコミが、何のためらいもなく「A級戦犯が祀られている靖国神社に首相が参拝するのはけしからん」あるいは「A級戦犯を靖国神社から分祀すべきだ」などと主張しているが、そのA級戦犯なるものは、以上のような不当な「裁判」によって貼られたレッテルにすぎず、けっして国際法上の犯罪人ではないのである。いうなれば、A級戦犯とは、単なる裁判ごっこ≠フ中での犯罪人役≠ナしかないのである。東京裁判のこのような実態を認識した上で、そのような能天気な発言をしているのであろうか。もし十分に認識もしないままにそのような発言をしているのであれば、不勉強にして、かつ軽率きわまりないものといわざるをえない。しかし、もし十分認識しているにもかかわらず、あえてそのような発言をしているのであれば、それはソープのいう「リンチ裁判」を正当化し、パールのいう「文明の抹殺」に率先して加担していることになるのであって、法治国家日本の政治家やマスコミにはあるまじき愚行なのである。

過去の過ちを反省したいのなら好きにすればよいが、それでも不当なものは不当と追及する公平な態度は必要であろう。

かつては、社会党の議員さえも東京裁判の不当性を指摘していた。

たとえば、古屋貞雄衆議院議員はこう演説している。

……戦争が残虐であるということを前提として考えますときに、はたして敗戦国の人々に対してのみ戦争の犯罪責任を追及するということ―言いかえまするならば、戦勝国におきましても戦争に対する犯罪責任があるはずです。しかるに、敗戦国にのみ戦争犯罪の責任を追及するということは、正義の立場から考えましても、基本的人権尊重の立場から考えましても、公平な観点から考えましても、私は断じて承服できないところであります。(拍手)……世界の残虐な歴史の中に、最も忘れることのできない歴史の一ページを創造いたしましたものは、すなわち広島における、あるいは長崎における、あの残虐な行為であって、われわれはこれを忘れることはできません。(拍手)この世界人類の中で最も残虐であった広島、長崎の残虐行為をよそにして、これに比較するならば問題にならぬような理由をもって戦犯を処分することは、断じてわが日本国民の承服しないところであります。(拍手)
ことに、私ども、現に拘禁中のこれらの戦犯者の実情を調査いたしまするならば、これらの人々に対して与えられた弁明並びに権利の主張をないがしろにして下された判定でありますることは、ここに多言を要しないのでございます。しかも、これら戦犯者が長い間拘禁せられまして、そのために家族の人々が生活に困っておることはもちろんでありまするけれども、いつ釈放せらるかわからぬ現在のような状況におかれますることは、われわれ同胞といたしましては、これら戦犯者に対する同情禁ずることあたわざるものがあるのであります。われわれ全国民は、これらの人々の即時釈放を要求してやまないのでございます。……
(終戦五十周年国民委員会編『世界がさばく東京裁判』二三八頁〜二三九頁)

見事な正論である。いまの一部の自民党議員以上に立派なものである。かつての社会党議員は、このように真理を堂々と主張していたのである。
また、同じく社会党の堤ツルヨ衆議院議員は、戦犯として処刑され、あるいは獄死した方々に対してきわめて同情的な言葉を残している。

処刑されないで判決を受けて服役中の[者の]留守家族は、留守家族の対象になって保護されておるのに、早く殺されたがために、国家の補償を留守家族が受けられない(服役中の者の家族は「未帰還者留守家族援護法」という法律によって保護され、通常の戦闘で亡くなった者の遺族は「戦傷病者戦没者遺族等援護法」という法律によって保護されるのに、東京裁判はじめ戦犯裁判で処刑された者の家族は、このいずれによっても保護されないことを指摘している。引用者註)。しかもその英霊は靖国神社の中にさえも入れてもらえないというようなことを今日の遺族は非常に嘆いておられます。……遺族援護法の改正された中に、当然戦犯処刑、獄死された方々の遺族が扱われるのが当然であると思います。
(終戦五十周年国民委員会編『世界がさばく東京裁判』二四一頁)

社会党あるいはいまの社民党が、これらの発言を誤りとして取り消し謝罪したという話は、寡聞にして聞いたことがない。かつては東京裁判の不当性を指摘し、「戦犯として処刑、獄死された英霊が靖国に入れてもらえないのはかわいそうだ」と主張しておきながら、いまは「靖国には戦犯が祀られているから参拝するのはけしからん」というのは、矛盾ということもさることながら、戦犯という理不尽なレッテルを貼られた英霊に対してあまりにも冷酷な態度であろう。さらには、かつての社会党議員が持っていた法治国家の政治家としての良識や理性を、いまの社民党議員は失ってしまったものといわざるを得まい。社民党議員はじめ首相の靖国参拝に異を唱える国会議員各位も、政治的な意図で真実を歪めることなく、不当なものは不当と追及する先輩議員の態度を見習っていただきたいものである。

話を教科書問題に戻せば、法治国家日本の教科書ならば、法治主義の精神を蹂躙した東京裁判という野蛮なる愚行は「悪しき前例」とする立場から記述すべきであろう。

各教科書のうち、扶桑社は『東京裁判について考える』(二一五頁)と題するコラムを設け、一ページを割いて東京裁判に対する疑問をきわめて正確かつ詳細に記述しており高く評価できるが、その他の教科書にはそうした記述が一言も見られない。扶桑社ほど詳細に記述しないまでも、せめて東京裁判に対して数多くの批判の声が上がっている事実程度は記述しなければなるまい。したがって、修正を要する。



○わが国の一連の軍事行動を「侵略」とする記述は修正を要する


これまで歴史教科書の記述の不当箇所を多々指摘してきたが、歴史教科書がここまで惨憺たる状況になってしまった原因の一つに、いわゆる「近隣諸国条項」がある。近隣諸国条項とは、教科書を記述するに際して「近隣のアジア諸国との間の近現代史の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」を要するというもので、教科書検定の基準の一つとなっている。このような条項があるために、これまで指摘してきたような、明らかに史実に反するデタラメな記述までも、近隣諸国、とりわけ韓国や中国に配慮するあまり、検定で指摘されることなくパスし、子供たちに教えられてしまっているのである。

この条項が設けられたのは、一九八二(昭和五十七)年に行われた高等学校用の日本史教科書検定の際、文部省(いまの文部科学省)が、中国華北への「侵略」という教科書の記述を「進出」と書き改めさせた、と新聞各社が報道したことに端を発している。

これによって中国から抗議の声が上がったが、この報道が実は誤報であることが後に明らかになった。にもかかわらず、はっきりと誤報を認め謝罪したのはサンケイ(産経)新聞のみであり、その他のマスコミはそうした措置をとらなかった。

しかも、ときの宮沢喜一内閣官房長官は、誤報であることが明らかになったにもかかわらず、わざわざ「近隣諸国との友好、親善を進めるために、近隣諸国の批判を考慮して、検定基準を改め、政府の責任で教科書の記述を是正する」旨の談話を発表した。要するに、中国に迎合したのである。これに基づいて設けられたのが、近隣諸国条項である。なお、この時期、日中国交回復十周年の式典に出席するため、ときの鈴木善幸首相の訪中が予定されており、これに出席するために近隣諸国条項の新設が急がれたともいわれている。とすれば、たかが式典への出席と引き換えに、その後二十年以上にわたって異常な歴史教科書が授業で用いられ、歴史教育が歪められてしまっているのである。

しかもこのとき、韓国政府はこう表明していた。

「われわれはあえて事を荒立てるつもりはない。」「ただ、中国がこれ以上騒ぎ、それに対して日本が迎合する態度を見せれば、韓国としては中国以上に騒がざるをえませんよ。」
(渡辺昇一・岡崎久彦『尊敬される国民 品格ある国家』五十二頁〜五十三頁)

韓国は、この時点では自制していたのである。にもかかわらず、中国に対し堂々と反論することなく迎合的な態度をとり続けたことで、忠告どおり、韓国も日本非難を始めることとなり、その後も年を経るごとにエスカレートしてしまった。要するに、卑屈に外圧に屈してしまう迎合的な態度が、日韓関係を悪化させてしまったのである。諸外国の言い分を唯々諾々と認めればすべて丸く収まるという認識は大間違いなのである。
そもそも、この件では「侵略」との文言を「進出」に書き換えさせたことは誤報であったが、仮に事実であったとしても、けっして不適切なことではない。

第一、侵略の定義すら明確にはなっていない。

たとえば、パリ不戦条約が締結されたものの、同条約では、当事国が「自衛戦争である」とさえ言えば自衛戦争と認定され、侵略戦争として非難されることがないことは前述のとおりである

東京裁判の判決でも、侵略を定義することが難しいと認めているにもかかわらず、わが国の東南アジアへの進攻を「侵略戦争」と断じている。この矛盾を、リチャード・H・マイニアはこう皮肉っている。

われわれは、侵略が何であるかわからないのに、ドイツと日本が侵略をなしたことはわかっていたことになる。
(リチャード・H・マイニア『東京裁判 勝者の裁き』七十八頁)

またパール判事は、侵略を定義することの必要性を感じながらも、それがきわめて困難であることを指摘し、判決文にこう記している。

おそらく現在のような国際社会においては、「侵略者」という言葉は本質的に「カメレオン的」なものであり、たんに「敗北した側の指導者たち」を意味するだけのものかもしれないのである。
(東京裁判研究会『パル判決書(上)』五〇〇頁)

一九七四年に至って、一応「侵略の定義に関する国際連合総会決議」が国連で採択された。とはいえ、同決議にも法的拘束力はなく、また同決議の定義にもかかわらず、最終的には安全保障理事会、特に常任理事国の意向で侵略か否かが決せられるというものである。たとえば、さきのイラク戦争なども、同決議の定義に照らせばアメリカによるイラクへの「侵略」というべきものであるが、これを「侵略」とは認定されていない。同決議による定義も、その程度の、きわめて不確定的なものなのである。

そこで、とりあえず『広辞苑(第五版)』によるならば、「侵略」とは、「他国に侵入してその領土や財物を奪いとること。」とあり、「侵入」とは、「立ち入るべきではない所に、おかし入ること。無理にはいりこむこと。」とある。したがって、侵略とは、不法に他国に入り込んでその領土や財物を奪取すること、ということになろう。

この一応の定義に基づいて、まず満洲事変について検討すれば、関東軍は満洲に不法に入り込んだのではなく、日露戦争後のポーツマス条約や満洲に関する日清条約など、正当な法的根拠に基づいて駐留していたものである。そして満洲での軍事行動は、満洲に有する権益、およびこれに基づいて満洲に在留していた邦人を保護することを目的としたものであって、領土や財物の奪取を目的としたものではなかった。現にわが国は、満洲を制圧した後、これを植民地とすることなく、満洲国を建国し、満洲皇帝の手に戻している。

支那事変についても、蘆溝橋で発砲を受けた日本軍は、北京議定書に基づいて駐留していたものであって、華北に不法に入り込んだものではない。その後の軍事行動についても、わが国の停戦努力にもかかわらず、中国共産党の謀略に乗せられて戦わされたものであった。

大東亜戦争については、マッカーサーさえ自衛のための戦争であったと認めているほどのものであり、重ねて説明するまでもない。

このように、国際法上も、また一般的な意味においても、わが国の一連の軍事行動を「侵略」と断ずることはできないのである。にもかかわらず、扶桑社を除くいずれの教科書も、随所で「侵略」との文言を用いてわが国の軍事行動を記述している。

ところが一方で、まさに「侵略」と呼ぶにふさわしい、終戦間際のソ連のわが国への侵攻については、いずれの教科書も「侵略」とは記述していない。

このような矛盾からも分かるように、「侵略」との文言は、まさにパールのいう「カメレオン的」なものであり、けっして歴史的事実を客観的に表現する文言ではなく、それどころか、たとえば教科書執筆者が日本を貶めたいと思えば日本の行為を「侵略」と記述し、共産主義国ソ連を貶めたくないと思えばソ連の行為を「侵略」と記述することは避ける、というように、教科書執筆者の主観の入り込みやすい、きわめて政治的色彩の強い文言なのである。つまり、「侵略」とは、プロパガンダ(政治宣伝)のための宣伝用語であるといってよかろう。

となれば、そのような文言を用いることは、教科書の記述が政治的に公正であるべきことを規定する教科用図書検定基準に抵触するものであり、不適切である。しかも、その文言をわが国自身の行為に対して用いることは、「我が国の歴史に対する愛情を深め、国民としての自覚を育てる」ことを歴史教育の目標とする学習指導要領の精神とは真っ向から対立する態度なのである。

したがって、わが国の軍事行動を「侵略」とする記述は、「進出」や「進攻」に修正することを要する。もしそれが近隣諸国条項に抵触するというのであれば、まずは近隣諸国条項を廃止した上で、教科書検定を行うべきである。

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