第十一章 大東亜戦争(太平洋戦争)B〔終戦へ〕
沖縄戦では、軍隊のみならず、十七歳〜四十五歳の民間人男子約二万五千人が戦闘兵員として参加したほか、県立男子中学生などからなる「鉄血勤皇隊」や、「ひめゆり学徒隊」はじめ高等女学生などからなる看護部隊も参加しての軍民一致の戦いであった。
その様子は、一九四五(昭和二十年)年六月六日、大田実司令官(海軍少将)が海軍次官に宛てた、「沖縄県民斯ク戦ヘリ」で知られる電報に描かれている。
その電文(引用者要約)は以下のとおりである。
沖縄島に敵が攻略を開始して以来、陸海軍は防衛戦闘に専念し、県民に関してはほとんどかえりみることができなかった。
しかし、私の知る限りでは、県民は、青年・壮年のすべてを防衛召集にささげ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却され、わずかに身一つで、軍の作戦のさまたげとならない場所の小防空壕に避難し、激しい砲爆撃下、風雨にさらされつつ、貧しい生活に甘んじていた。
しかも若い婦人は率先して軍に身をささげ、看護婦、割烹婦はもとより、砲弾運びや挺身斬込隊すら申し出るものもあった。
しょせん敵が来れば、老人や子供は殺され、婦女子は後方に運び去られて暴行されるとして、親子が生き別れ、娘を軍の営門に捨てる親もあった。
看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発した後も、身寄りのない重傷者を助けるなど、きわめて真面目であり、一時の感情に駆られての行動とは思われない。
さらに軍の作戦の大転換があれば、夜中にはるか遠方の住民地区まで、輸送力のない者が、黙々と雨の中を移動することもあった。
これを要するに、陸海軍が沖縄に進駐して以来、終始一貫して、勤労奉仕や物質節約を強要されながらも(一部にはいろいろ悪評もあったが)、ひたすら日本人として国を守ろうとの気持ちを胸に抱きつつ、ついに、〔不明〕ことなくして、この戦闘の末期と沖縄島は実情〔不明〕。
一木一草にいたるまで焦土と化した。食糧も六月いっぱいを支えるのみだという。
沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを。
このように沖縄の人々は、祖国日本、あるいは故郷沖縄をアメリカから守るため、各々の任務を精一杯果たしていた。
にもかかわらず、たとえば帝国書院が掲載している『戦場となった沖縄』(二一一頁)と題するコラムは、次のようなものである。
1945年3月末、アメリカ軍が沖縄島をとり囲み、慶良間列島に上陸し戦いがはじまりました。激しい戦いの末、5月には日本軍は戦闘能力を失い、住民が避難していた沖縄島南部に退きました。その結果、日本軍によって、食糧をうばわれたり、安全な壕を追い出され、砲弾のふりそそぐなかをさまよったりして、多くの住民が死にました。
日本軍司令官は6月22日に自害し、日本軍の組織的な抵抗は終わりましたが、「最後の一兵まで戦え」という命令は残っていたので、住民と兵士の犠牲は増え続けました。人々は集団死に追いこまれたり、禁止されていた琉球方言を使用した住民が日本兵に殺害されたりもしました。
また、八重山列島などではマラリア発生地にも移住させられたため、多くの病死者が出ました。
沖縄の人々が、あたかも日本軍に虐げられるだけの哀れな流浪の民のように描かれている。このような記述では、日本の勝利を信じて、率先して日本軍に協力し、最後の最後まで力を尽くして亡くなった沖縄の人々の名誉も何もあったものではない。それこそ、そうした人々の死を「犬死」にしてしまうことになるのではなかろうか。
沖縄の人々の献身的な奮闘を、日本を貶めようとする政治的な意図で不当に歪めることなく記述すべきである。
また、日本書籍新社(二〇七頁)は「軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集団的な自殺を強制した。」と、あたかも軍の命令で集団自決させられたかのように記述しているが、これは誤りである。
当時、集団自決の現場にいた金城武徳氏は、こう証言する。
金城さんの証言に基づいて米軍上陸後の様子を再現してみると、概略このようになります。渡嘉敷島に上陸した米軍はまず島の中北部にあるA高地という所を占領し、ここからさきに北の、日本軍のいるとおぼしき西山に向かって迫撃砲を猛烈に撃ちはじめた。それがフルノチビにいた住民達の上にも雨あられのようにどんどん飛んできて逃げる場所もなくなり、これはもう駄目だとみんな思い始めた。なにしろ捕虜になれば、女は辱められる、男は男根をちょんぎられてローラーで轢き殺されると信じていましたから、もう気が気じゃない。それで民間人で構成される防衛隊が住民達に手榴弾を配り始めた。『鉄の暴風』にはこの手榴弾は軍から供給されたと書かれているけれども、実際はそうではなく防衛隊がどこからか手に入れたものだった。
ともかく、手榴弾をみんなに配ったところで古波蔵惟好という村長がみんな玉砕しようと言って、「天皇陛下万歳」を唱え、集団自決が始まった。二、三十人が一塊になって手榴弾を囲むようにして死んでいった。辺りには自爆した人達の肉片が飛び散っていたそうです。ただ、住民の多くは手榴弾の扱い方が分からず不発も結構多く、そういった人達は、夫や妻や子どもの首を絞めて殺したり、鉈や斧、鍬でもって殺したという。米軍の迫撃砲でやられる方がまだ死に方としてはいい方だったと言われるくらい地獄のような、本当に痛ましく悲惨な光景が現出したわけです。それで結局、集まっていた住民約六百人のうち三百人くらいが死にました。
ところが、そこで死にきれなかった人達は今度は軍の陣地へ行き、「機関銃を貸してくれ。皆、自決するから」と頼んだんです。そうしたら赤松隊長が出てきて、「なんと早まったことをしてくれたんだ。戦いは軍がやるから、お前たちはしなくてもいい。我々が戦う弾丸もないぐらいなのに、自決用の弾丸なんかない」ときっぱり言ったという。そして赤松隊長は、安全な所に避難するようにと住民達を今はグラウンドになっている東側の空き地に行かせた。しかし、そこでも半狂乱状態の住民達が自決を始めて、三十人前後の自決者が出た。
(日本政策研究センター『明日への選択』平成十四年九月号所収、中村粲「『軍命令』はなかった」三十三頁)
手榴弾を配ったのは民間人で構成される防衛隊であり、集団自決を呼びかけたのは村長であって、いずれも日本軍ではない。そして日本軍の赤松隊長は、既に自決してしまった住民の死を惜しみ、自決するために機関銃を貸してほしいという住民を思いとどまらせているのである。
日本書籍新社のほかにも、前述の帝国書院(二一一頁)や、大阪書籍(二〇一頁)、清水書院(二〇六頁欄外)が、主語は明記していないものの、前後の文脈からは日本軍による集団自決の強制があったかのような印象を与える記述を掲載している。いずれも修正ないし削除を要する。
原爆投下の理由について、東京書籍、日本文教出版、扶桑社を除くいずれの教科書もわが国がポツダム宣言を「黙殺」したことと関連づけて記述している。
もっとも、清水書院(二〇六頁)は「戦争の早期終結を名目に」と、戦争終結が単なる「名目」にすぎないことに触れているが、たとえば帝国書院(二一三頁)などはこう記述する。
ポツダムの会議では、アメリカ・イギリス・中国の名前で日本の無条件降伏をうながす共同宣言を出しました(ポツダム宣言)。しかし、この宣言を日本が黙殺したため、戦争の早期終結を望むアメリカは、8月6日に広島に、8月9日に長崎に原子爆弾を投下しました。
わが国に全面的に非があるといわんばかりの、原爆投下を正当化する不当きわまりない記述である。
元東京裁判判事のパール博士は、原爆投下の不当性について、端的にこう述べている。
広島、長崎に原爆を投下したとき、どのような口実がなされたか。日本として投下される何の理由があったか。当時すでに日本はソ連を通じて降伏の用意をしていた。連合軍は日本の敗北を知っていた。それにもかかわらず、この残虐な兵器を日本に投下した。しかも実験として広島と長崎に投下したのである。……彼らは口実として、もし広島に原爆を投下せねば多数の連合軍の兵隊が死ぬことを強調した。原爆投下は日本の男女の別、戦闘員、非戦闘員の区別なく無差別に殺すことである。いったい、白人の兵隊の生命を助けるために幾十万の非戦闘員が虐殺されることはどういうことなのか。彼らがもっともらしい口実をつくるのは、このような説明で満足する人々があるからである。
(加藤典洋『アメリカの影』三二三頁)
帝国書院の教科書執筆者も「このような説明で満足する人々」の一員といえよう。
パールが指摘するように、アメリカは日本に降伏の意思があることを十分認識していた。
ウィリアム・リーヒ(米海軍大将)
「私の意見では、広島と長崎に対してこの残忍な兵器を使用したことは対日戦争で何の重要な助けにもならなかった。日本はすでに打ちのめされており、降伏寸前だった。」
(ガー・アルペロビッツ『原爆投下決断の内幕 上』十頁)
アイゼンハワー(ヨーロッパ戦線の連合軍最高司令官)
「(原爆を日本に投下する計画を聞かされているうちに)自分が憂鬱な気分になっていくのがわかって、大きな不安を口にした。まず、日本の敗色は濃厚で、原爆の使用はまったく不必要だという信念を持っていた。……日本はまさにあの時期に、『面目』を極力つぶさない形で降伏しようしていると、私は信じていた。」
(同書 十一頁)
にもかかわらず、アメリカは、あえて数多くの人々が住む広島と長崎に、それぞれ種類の異なる原爆を投下し(広島にはウラン型、長崎にはプルトニウム型)、広島で約二十万、長崎で約十四万もの大虐殺を行ったのである。
そもそも、東京書籍と扶桑社を除く各社は、日本がポツダム宣言を「黙殺」したからアメリカが原爆投下を決断した、との文脈で記述しているが、しかし、ポツダム宣言が発表されたのは七月二十六日、トルーマン大統領が原爆投下を命じたのはその二日前の七月二十四日である。つまり、わが国がポツダム宣言の内容さえ知らない時点で、トルーマンはすでに原爆投下を命じていたのである。
しかもトルーマンは、原爆を投下する前に日本がポツダム宣言を受諾してしまうことのないよう、施策を講じている。彼が当初受け取ったポツダム宣言の草案では、第十二項はこう記されていた。
われわれの諸目的が達成されて、且つ日本国民を代表する性格を備え、明らかに平和的志向と責任のある政府が確立されたとき、連合国占領軍はただちに撤収されるであろう。このような政府が二度と侵略の野望を抱くものでないことを、平和を愛好する諸国が確信するのであれば、これには現皇統のもとにおける立憲君主制を含むものとする。
このように、草案では「現皇統のもとにおける立憲君主制」の維持、つまり「国体護持」の保障が明記されていたのである。この「国体護持」こそ、当時日本政府の最大の関心事であった。その保障が明記されていたのでは、日本はすぐにポツダム宣言を受諾してしまうかもしれない、と彼は考え、傍点部分を削除してしまったのである。
以上を要するに、原爆投下は、帝国書院が記述するような「戦争の早期終結」とは全く関係なく、単に一般市民をモルモットにした人体実験だったと断言してよかろう。
よって、原爆投下をポツダム宣言「黙殺」の結果ととらえ正当化する記述は、修正ないし削除を要する。
なお、この暴挙に対し、わが国は、長崎に原爆が投下された翌八月十日、次の『米国の新型爆弾による攻撃に対する抗議文』(引用者要約)を、永世中立国のスイスを通じて提出した。
アメリカ政府は、このたびの世界大戦勃発以来、再三にわたり、毒ガスやその他の非人道的な兵器の使用は文明社会の世論によって不法とされているとして、相手が使用しない限りこれを使用することはない、と声明してきた。にもかかわらず、アメリカが今回使用した爆弾は、その無差別性や残虐性において、毒ガスその他の非人道的兵器をはるかに上回っている。アメリカは、国際法および人道の根本原則を無視して、すでにわが国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し、多数の老人や子ども、女性を殺傷し、神社、仏閣、学校、病院、一般民家などを倒壊・焼失させた。そして今また、新奇にして、かつ従来のいかなる兵器とも比べものにならない無差別性・残虐性を有する爆弾を使用したことは、人類文化に対する新たな罪悪である。日本政府は、ここに自らの名において、かつ全人類および文明の名において、アメリカ政府を糾弾するとともに、即時このような非人道的兵器の使用を放棄することを、厳重に要求する。
(『朝日新聞』昭和二十年八月十一日付)
このように、「自らの名において、かつ全人類および文明の名において」原爆の使用放棄を訴えた日本政府の堂々たる態度こそ、教科書に掲載すべきであろう。
帝国書院(二一三頁)、東京書籍(一九五頁)、日本文教出版(一八四頁)は、ポツダム宣言を、日本に無条件降伏を求めたものであると記述している。しかし、ポツダム宣言第五条には「われわれの条件は以下のとおりである」と規定され、第六条以下に条件が掲げられている。つまり、扶桑社(二一〇頁)が記述するように、ポツダム宣言は「日本に対する降伏の条件を示した」ものであり、その受諾は「条件付」降伏なのである。第十三条に「無条件降伏」との文言があるが、これは「全日本国軍隊」の無条件降伏であって、「日本政府」の無条件降伏とは異なる。
たとえば、第十二条には「前記の諸目的が達成され、かつ日本国国民が自由に表明する意思に従って平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立されたときには、連合国の占領軍は、直ちに日本国より撤収する。」との条件が掲げられており、連合国がこれに違背すれば抗議もできるが、政府が無条件降伏するということは、連合国軍がずっと居座り続けても文句は言えない、というものである。つまり、無条件降伏ならば連合国側は何者にも拘束されない(ただし国際法には拘束される)のに対し、「条件付」降伏ならば、連合国側もまたその条件に拘束され、これを守る義務を負うのである。
もっとも、その後GHQが日本で行った占領政策は、たとえばポツダム宣言第十条に「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されなければならない」と規定されているにもかかわらず、これに違背して検閲を行い、占領統治に不都合な言論や出版を禁じたり、さらには、占領者は占領地の法律を尊重しなければならないとする国際法(ハーグ陸戦条規第四十三条)にさえ違背して日本国憲法の原案を作成するなど、その実態は無条件降伏のようなものではあったが、ポツダム宣言自体は、日本の無条件降伏を求めたものではない。
したがって、冒頭の各社の記述は史実に反しており、修正を要する。
一九四五(昭和二十)年八月九日夜、天皇御臨席のもと御前会議が開かれ、ポツダム宣言受諾の可否がはかられた。審議は長く続いたが結論はまとまらず、決をとったところ、三対三であった。やむをえず翌十日午前二時、鈴木首相が天皇の御前に進み出て御聖断(天皇の御判断)を仰いだところ、
「自分の任務は、祖先から受けついだこの日本を子孫に伝えることである。今日となっては一人でも多くの日本国民に生き残ってもらってその人達に将来再び立ち上がってもらうほかに、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。それに、このまま戦を続けることは、世界人類にとっても不幸なことである。自分のことはどうなっても構わない。堪え難きこと忍び難きことではあるが、この戦争を止める決心をした次第である」
(迫水久常『最後の御前会議における昭和天皇御発言全記録』七頁)
と仰せられ、ポツダム宣言受諾が決定した。
そして八月十五日正午、玉音放送で国民にポツダム宣言受諾が知らされた。
わが国にとってこの日は、ほとんどの国民が慟哭した終戦の日である。
(田中館貢橘『歴史教科書のここがおかしい』一五五頁)
それが普通の感覚であろう。約四年間、支那事変から起算すれば約八年もの間、死力を尽くし、多くの犠牲を払いながらも奮闘した甲斐なく敗れてしまったのであるから、天皇陛下や、先に逝った英霊にも申し訳が立たない、という悔しさで満ち溢れていたはずである。
それとともに、ともかくも戦争が終わったという安心、今後日本はどうなってしまうのかという不安、日本はもう終わりだという絶望、一日も早く日本を復興させてやろうという希望、等々が入り乱れていたであろう。
この点、帝国書院(二一四頁)は「それぞれの敗戦」とのコラムを設けて、そうした日本人の心情を掲載しているものの、その一方で「日本の植民地とされた朝鮮や台湾、日本軍に占領されていた中国や東南アジアの人々は、解放を喜びました。」などという記述を載せている。ほかにも、教育出版(一七五頁)、清水書院(二〇七頁)、東京書籍(一九五頁)、日本文教出版(一八五頁)が同趣旨の記述を掲載し、このうち教育出版、清水書院、日本文教出版にいたっては、「民族解放」をよろこぶ朝鮮の人々の写真を掲載している。これら各社は、日本の教科書を作っているという自覚があるのであろうか。
日本の教科書である以上、当時の日本人の$S情こそ、まずは記述すべきである。
そもそも、日本の敗戦によってアジアの人々が解放されたとする記述自体、史実を踏まえていない、いいかげんな記述である。
東南アジア諸国の中で、一九四五年に独立を果たした国は稀であり、東南アジアの人々はその後、植民地を回復するために再び戻ってきたイギリスやオランダなど旧宗主国と戦わなければならなかった。これを打ち払って、ようやく独立し、民族解放を果たしたのである。インドネシアは例外的に一九四五年に独立を宣言してはいるものの、即完全独立というわけにはいかず、植民地回復のため戻ってきたオランダと戦わなければならなかったのは前述のとおりである。
各教科書の記述は、そうした東南アジアの人々の苦難の歴史をまったく無視しているのである。同じアジアに対する侵略でありながら、わが国の侵略は執拗に追及する一方、欧米諸国の侵略は平気で歴史から消し去ってしまうという、こうしたちぐはぐな態度一つとっても、教科書執筆者がけっしてアジアの人々の心情や立場に配慮してアジアに同情的な記述を教科書に掲載しているわけではなく、単にそのようなふりをしながら日本を貶めようとしているだけなのだと判断できよう。
韓国もまた、終戦とともに自動的に即独立したわけではない。アメリカは当初から朝鮮をすぐに独立させる意思はなく、ヤルタ会談の際にルーズベルトは、二十〜三十年間は連合国による信託統治が必要であるとする発言をしているのである。
これに対し、日本政府は終戦後すぐに朝鮮を独立させるべく、終戦目前の八月十二日、独立運動家の一人宋鎮兎に、朝鮮人の自治組織に行政権を引き渡すことを申し出ている。しかし宋がこれを断ったため、八月十五日、呂運亨に申し出たところ、呂はこれを受け入れ、さっそく「朝鮮建国準備委員会」を発足させた。そして街には太極旗(韓国の国旗)がひるがえった。
ところが連合国は、朝鮮総督府に対し、当分の間は総督府が朝鮮統治を続けた上で、連合国に施政権を引き渡すよう命じ、独立を取り消させたため、八月十八日、やむなく朝鮮建国準備委員会の行政権を取り戻し、太極旗は下ろされた。そして九月九日、朝鮮は連合国の施政下に入った。その後紆余曲折を経て、大韓民国が正式に独立を果たしたのは、日本の降伏から三年後、一九四八年の八月十五日であって、一九四五年八月十五日ではないのである。
中国では国民党と共産党の内乱が再開し、共産党に追われた国民党が台湾に逃げこんだことで、従来から台湾に住んでいた人々は迫害を受けることとなる(二・二八事件など)。そして満洲帝国は独立を失い、共産党が侵攻したチベットやウイグルでは、いまもなお民族浄化が推し進められるなどの人権蹂躙が行われており、中国からの独立をめざす運動が続いている。
以上のように、けっして各教科書(扶桑社を除く)の記述から想起されるような「日本が負けて、めでたし、めでたし」というものではないのである。これらの教科書は、日本が諸悪の根源であったかのように記述しようとするあまり、以上の程度の史実さえ無視し、歴史を改竄しているのである。
したがって、日本の敗戦によって民族解放が果たされたとする記述は削除を要する。
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