第10章 大東亜戦争(太平洋戦争)A〔日本の奮闘〕



わが国の奮闘とアジアの人々の協力について記述すべきである



第二次大戦において日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために偉大なる歴史を残したといわねばならない。その国々とは日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような不敗の半神ではないことを、西洋人以外の人類の面前において明らかにした点にある。(アーノルド・トインビー=イギリス・歴史学者)

 大東亜戦争でわが国は、大東亜共栄圏建設≠フ理念を掲げて戦った。これは、当時欧米諸国の支配下にあった東南アジアをも含む東アジア(大東亜)の人々を解放し、東アジア諸国を独立させて、日本をはじめとする東アジアの諸国家による共存共栄の新秩序を樹立しようという理念である。つまり大東亜戦争は、わが国の自衛戦争であったと同時に、アジアの人々にとっては、欧米諸国の植民地支配から脱却するきっかけとなる戦争でもあったのである。
 しかし、当時のわが国とアジアとの関係について、扶桑社を除く各社の記述は、おおよそ次のようなものである。

長い間、欧米諸国の植民地とされてきたアジアの人々は、日本軍に期待をしました。しかし、占領地では、住民にきびしい労働をさせたり、戦争に必要な物資を取り立てたりすることもありました。さらに、占領に反対する人々を弾圧したりしました。このため、東南アジアでは、日本軍に抵抗し、独立に向けた動きも出てきました。(教育出版 p171)

 あまりにも浅薄な、きわめて偏った歴史認識といわざるを得ない。
 多言をするより、まずは大東亜戦争の意義を高く評価するアジアの人々の発言を紹介する。

◇インド

インドでは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像もできなかった。それをわれわれと同じ東洋人である日本が見事撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた。(ラダ・クリシュナン=元首相)

インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで三十年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド四億の国民は深く、これを銘記している。(グラバイ・デサイ=インド弁護士会会長、法学博士)

われわれインド国民軍将兵は、インドを解放するために共に戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場に散華(さんげ)した日本帝国陸軍将兵に対してもっとも深甚なる敬意を表わします。インド国民は大義のために生命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代にいたるまでけっして忘れません。我々はこの勇士たちの霊を慰め、御冥福をお祈り申し上げます。(S・S・ヤダバ=インド国民軍大尉)

◇インドネシア

われわれインドネシア人は、オランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、三百五十年間にわたり、幾度か屍山血河の闘争を試みたが、オランダの巧緻ななスパイ網と強靭な武力と、過酷な法律によって圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が欣喜雀躍、感謝感激したのは当然である。(アラムシヤ=元第三副首相)

われわれアジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏をわれわれの面前で徹底的に打ちのめしてくれた。われわれは白人の弱体と醜態ぶりを見て、アジア人全部が自信を持ち、独立は近いと知った。そもそも大東亜戦争はわれわれの戦争であり、われわれがやらねばならなかった。そしてわれわれの力でやりたかった。(ブン・トモ=元情報相)

日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。…… (日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。(アリフィン・ベイ=ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)

◇タイ

日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子どもはすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意された日である。さらに八月十五日は、我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。我々は、この二つの日を忘れてはならない。(ククリット・プラモート=元首相)

◇ビルマ

ビルマ人はアジアを結合せしめアジアを救う指導者を待望しつつありしが遂にこれを大日本帝国に発見せり。……ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものなり。(バー・モウ=元首相)

歴史は、高い理想主義と、目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉のためにのみ生命と財産を犠牲にした例を、ひとつくらい見るべきだ。そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割を果たすべく運命づけられているかに見える。(ウー・ヌー=外相)

◇フィリピン

かねてから予見しているように日本が負け、フィリピンが再び米国の制圧下に入ったとしても、この戦争の影響は必ず子孫に及び、アジア人のアジアなる思想は受け継がれてゆくだろう。(ラウエル=大統領)

◇マレーシア

日本軍政は東南アジアの中でもっとも政治的意識が遅れていたマレー人に、その種をまき、成長を促進させ、マラヤにおける民族主義の台頭と発展に触媒≠フ役割を果たした。(ザイナル・アビディーン=歴史学者)

先の戦争にあたって、日本の皆様が私たちの独立を大きく助けてくださいました。日本の皆様がしてくださった最も重要なことは、東南アジアの人びとに初めて『自信』というものをもたらしたということです。(サイド・フセイン・アラタス=マラヤ大学副学長)

 アジアの声に真摯に耳を傾けよ、とは、しばしばわが国を断罪するために用いられる言葉であるが、ならば公平に、このようにわが国が大東亜戦争を戦った意義を高く評価するアジアの声にも真摯に耳を傾けるべきであろう。

 当時のアジアは、タイを除いて、ことごとく欧米列強の支配下にあり、幾度となく独立を目指す闘争も行われたが、鎮圧され続けた。
ところが、日本が宣戦布告するや、わずか数日〜数ヶ月間で欧米列強を駆逐した。アジアの人々と同じ有色人種である日本人が、数十年〜数百年にわたりアジア地域を支配し民衆を虐げてきた白色人種をかくもたやすく駆逐したことは、アジア民衆に強烈な衝撃を与えた。
 しかも、わが国はその後、欧米諸国に代わってこれらの地域を植民地支配するのではなくなく、「インドネシア祖国防衛義勇軍」や「インド国民軍」など独立義勇軍の組織・指導に尽力した。そして、フィリピンやビルマを独立させ、1943(昭和18)年11月には大東亜会議を開催し、大東亜共同宣言を採択して、アジア諸国の独立をいよいよ確固たるものとした。こうして、アジアの人々は勇気と自信を取り戻し、終戦後、欧米諸国がアジアの支配を回復すべく再び侵攻してきた際も、屈服することなくこれを打ち払い、独立を果たしたのである。

 インドネシアでは、終戦後も「われわれはインドネシア独立のために来たのだ」との使命感から、約二千もの日本兵が軍を離れ、あえて帰国することなくインドネシアに残った。そしてインドネシア独立のため、現地の人々と力を合わせ、植民地回復のため戻ってきたオランダ軍と戦った。結果、ついにこれを撤退させ、インドネシアの独立を達成したのである。

今、インドネシアも、その他の国も、大東亜戦争で、日本軍の憲兵隊が弾圧したとか、多数の労務者を酷使したとか、そんなことばかり言っているけれども、そういうことは小さい問題だ。いかなる戦場でも、そういうことは起こり得る。何千年前もそうだったし、今後もそうだ。日本がやった基本的なことは、すなわち最も大きな貢献は、われわれに独立心をかき立ててくれたことだ。そして、厳しい訓練をわれわれに課してくれたことだ。これは、オランダの思いもおよばないことだ。日本人はインドネシア人と同じように苦労し、同じように汗を流し、同じように笑いながら、われわれに対して独立とは何か∞どういう苦労をして勝ち取るものか≠教えてくれた。これは、いかに感謝しても感謝しすぎることはない。これは、PETA(ペタ=独立義勇軍)の訓練を受けた人たちが残らず感じていることなんだ。(サンバス=インドネシア・元復員軍人省長官)

 ちなみに、インドネシアの独立宣言の日付は「05年8月17日」となっている。05年とは、日本の皇紀2605年(西暦1945年)を意味するものである。また、インドネシアの国旗は赤と白の二色からなるが、これもやはり、わが国への感謝の念をこめて、日の丸と同じ赤白の二色を用いたものともいわれている。このような友邦を、各教科書のような歪められた歴史認識によって失うことなく、これからもいっそう友好を深めたいものである。

 ただし、けっして「日本がアジア諸国を独立させてやった」などと奢ることがあってはならず、わが国の奮闘の背景に、次のようなアジアの人々の協力があったことを忘れてはならない。

戦争中は物資の供出や労役で多くの人々が苦しんだのも事実であろう。
そこで、私はそのことをパラオ政府顧問のイナボ氏に聞いてみた。するとイナボ氏は、
「それ(労役)は日本の内地から来た民間人もやっていたことです。同じことです」と、平然と私に述べられたのである。
他のパラオ人にも同様の質問をしてみたが、同じような答えであった。実に有難い話である。
パラオの親日は、これだけに止まらない。
連合軍が上陸したアンガウル島では、現地民全員が日本軍と一緒に玉砕することを懇願したという。だが、宇都宮五十九連隊第一大隊(後藤丑雄少佐)は、隊長命令で彼らを全て連合軍へ降伏させた。日本軍は、パラオの民間人を戦闘に巻き込むことを極力回避するよう努力してきたのである。(ペリリュー島では戦闘に先立って、現地民をパラオ本島へ避難させた)。
アンガウル島の人々は、降伏の強制命令が出たその日を、今でも島のお祭りの日(島民蘇りの日)としている。
日本軍に協力して遠くニューギニアまで行き、戦闘に参加したパラオの人々もいる。パラオ挺身隊である。パラオ挺身隊の生き残りであるヤノ・マリウル氏は「私たちは最後まで日本軍人として戦うつもりでいた」とのべられている。「パラオ人戦死者を、ぜひ靖国神社へ祀ってほしい」とも言われる。
かつて日本の統治下にあった朝鮮や台湾人の戦死者は靖国神社へ祀られているのだから、パラオも同様に扱ってほしい、というのである。人々の親日感情、日本への思慕の想いは今も根強く残っている。
(名越二荒之助『大東亜戦争とアジアの歌声』p65〜p66)

 また、ビルマでは、次のようなエピソードも残っている。

英雄的行為も生まれたが、その一つは、戦時中のアジア人の間で伝説となった。サルウィン川での戦いの真最中、数人の日本人将校がビルマ人にボートで対岸に渡してくれるようたのんだ。船の通路は数ヵ所の英国側陣地からまる見えで、その射程距離にあったから、船を出すことは死にに行くようなものだった。しかし四人のビルマ人船頭が進み出た。二人の船頭と日本人将校が船底に伏せ、残りの二人の船頭はまっすぐ平然と立って()をこいだ。船が川の中ほどに来て、岸からまる見えになった時、二人のこぎ手は弾雨の中に倒れた。残る二人の船頭は一言もしゃべらず、騒がず、すぐに持ち場に着いてこぎ出した。ちょうど、船が対岸に着いた時、この二人も弾にあたって死んだ。これは、例のない英雄的行為であった。日本の新聞、ラジオはひろく、この話を伝え、日本全国と東南アジア諸国で感動を呼び起こしたのであった。
(バー・モウ『ビルマの夜明け』p169)

日本軍の無謀ぶりを揶揄するためにしばしば引用されるインパール作戦の中でも、感動的なエピソードが残っている。

光機関(対インド工作にあたった機関 引用者註)の工作員が敵陣へ近付くと英印軍(インド人兵士からなるイギリス軍 引用者註)が射撃してきたため、インド国民軍の工作員が日本人工作員の前に立ちはだかり、大声で叫びました。
「日本人を殺すな。われわれインド人の独立のために戦っているんだぞ!」
ヒンズー語の叫びを聞いて射撃は一瞬止みましたが、すぐに射撃が再開されました。すると今度は日本人工作員が立ち上がって両手を広げ、ヒンズー語で叫びました。
同胞を殺すな。撃つならまず俺を撃て。俺はお前達に話に行くところだ。武器は持っていない」
これを見ると、再びインド国民軍兵が日本兵の前に両手を広げて立ちます。この繰り返しにとうとう相手は根負けして、一個大隊すべてが寝返ったということです。
(名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』p341)

 こうして、敵味方に分かれて戦っていたインドの人々が一つとなって、日本に協力してくれたのである。その後、日本は戦争に敗れ、イギリスが再びインドを支配するために戻ってきたが、インドの人々は一丸となってこれを追い払い、独立を勝ち取った。

太陽の光がこの地上を照すかぎり、
月の光がこの大地を潤すかぎり、
夜空に星が輝くかぎり、
インド国民は日本国民への恩は決して忘れない。
(P・N・Lekhi=インド・最高裁弁護士)

 わが国もまた、そもそもは日本の戦争であった大東亜戦争に協力し、力を尽くしてくれたインドはじめアジアの人々への恩を決して忘れてはなるまい。

 大東亜戦争とは、わが国がアジアの人々の協力を得て、欧米列強を相手に力を合わせて戦い抜いた戦争だったのである。
今なお一部の政治家がアジアに出かけては偽善的な謝罪を繰り返しているが、彼らは、わが国がアジア諸国を相手に戦争したものと勘違いしているのではないのだろうか。あるいは、もともとアジアの人々が平和に暮らしていたところへ、わが国が軍靴でズカズカ乗り込んでいったとでも思っているのだろうか。そのような歴史認識に基づく謝罪は、全く見当違いなものなのである。

日本の政治家はどうしておわびばかりするのか。今もT氏は私に会うと一番に「過ぐる大戦において我が国は貴国に対してご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」というのだ。私は思わず言ってしまった。「どうしてそんな挨拶をするのか。我々はぺこぺこする日本人は嫌いだ。なぜサムライらしく毅然としないのか。日本はどんな悪いことをしたと言うのか。大東亜戦争でマレー半島を南下した時の日本軍はすごかった。わずか三ヶ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたのだと思っていた。日本は敗れたが英軍は再び取り返すことができず、マレーシアは独立したのだ」と。(ガザリー・シャフィー=マレーシア・元外務大臣)

 恥をかくのは、T氏のような謝罪愛好家≠セけで十分である。子供たちにはそのような恥をかかせたくはないものである。
 もとより、当時は戦争継続中であり、軍需物資を現地で調達する必要があったことから、アジア諸国の即時独立というわけにはいかず、また時に住民と衝突することもあったであろう。しかし、影があれば光もある。そして、各教科書が強調する影の部分以上に光の部分が強烈であったからこそ、アジアの人々の口から、大東亜戦争を高く評価する発言がかくも多く述べられたではないのだろうか。
にもかかわらず、扶桑社を除く各教科書の描く大東亜戦争は、暗黒一色である。
 たとえば、清水書院(p202)は「日本の占領政策は、欧米にかわる、植民地支配にほかならなかった。」と断じている。しかし、その被害者≠ヘこう評価しているのである。

大日本帝国は軍政を最終的に撤廃し、フィリピン共和国の独立を承認するというこのうえない形で、その高邁な精神と理念を証明した。帝国はその全ての誓約と宣言を誠実に守り、フィリピン国民が憲法を制定し、自らの文化と伝統に調和する国家を樹立する最大の機会を開いたのである。(パルガス=フィリピン・駐日大使)

ビルマ、インドネシア、フィリピンなどの東アジア諸国の植民地支配は一掃され、次々と独立し得たのは、日本が育んだ自由への炎によるものであることを特に記さねばならない。(ハビブル・ラーマン=インド・元国民軍大佐)

あの戦争によって、世界のいたるところで植民地支配が打破されました。そしてこれは、日本が勇戦してくれたお陰です。新しい独立国が、多く火の中から不死鳥のように姿を現しました。誰に感謝をささげるべきかは、あまりにも明白です。(タナット・コーマン=タイ・元副首相)

また、帝国書院(p209)は「日本語教育などの政策も進められたので、これらの地域でも、抗日運動がおこりました。」と記述するが、わが国は同時に、現地の言語や文化も尊重していた。

私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかも、マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、民族の国語を普及させ、青少年の教育をおこなってくれたのです。(ラジャー・ダト・ノンチック=マレーシア元上院議員)

私の人生で今日ほど幸せだったことはない。わが国土から英国が追放され、偉大なアジア民族が馳せつけて他のアジア民族を解放してくれた。我々に古代の遺産と国土の自由、宗教、文化を取り戻してくれた。私は死ぬ前にこの幸せな日を見ることができた喜びに泣いた。(コドー・マイン=ビルマ・民族解放派指導者)

 日本の来歴をより暗く描こうとする論者は、しばしば「アジアとの友好」を大義名分に掲げる。つまり、過去の過ちから目をそむけることなく、真摯にこれを受け止めて反省し、心から謝罪することがアジアとの友好につながる、という建前である。おそらく扶桑社を除く各教科書の執筆者もそうした建前を掲げるのであろうが、しかし、たとえば大阪書籍(p199欄外)が設けている次の課題を見ていただきたい。

日本の占領地でどのような抗日運動があったのか、調べてみよう。

 日本とアジアとの憎悪と反目の歴史を子供たちに一生懸命調べさせることがアジアとの友好につながるなどとは到底思えないのだが、いかがだろうか。こうした記述を見る限り、アジアとの友好を育もうなどという意図は微塵も感じられず、それどころかアジアとの関係をわざわざ悪化させようとしているのではないかとさえ疑いたくなる。
 アジアとの友好を育もうというのであれば、たとえば次のようなアジアの声を紹介すべきであろう。マレーシア独立の英雄、ラジャー・ダト・ノンチックが作詞した歌『日本人よありがとう』の歌詞である。

日本人よありがとう    作詞 ラジャー・ダト・ノンチック 作曲 田中舘貢橘


みずからもひもじい時に 配給のわずかなパンを
持ってきてくれた乙女ら ああ日本は美しかった
真白き富士の気高さと 歌う黒髪瞳清らか


空襲のサイレン鳴れば 真っ先に僕らを壕に
案内してくれた若者 日本人はひたむきだった
アジアのためのたたかいに 力尽くして彼等は散った


戦いに敗れた後の 生きるすべあてない街で
励ましてくれた友らよ 日本人は親切だった
独立のため生き抜けと 握り合う手に涙こぼれた


あの頃は苦しかったが アジアには平和がおとづれ
民はみな祖国を持った ああ日本の若人たちよ
こころを継いであたたかく 共に栄える明日に進もう
ああ日本の若き友らよ こころとこころ結び合い
豊かなアジア共に築こう
(名越二荒之助『大東亜戦争とアジアの歌声』p65〜p66)

心を一つにして豊かなアジアを築こう、というアジア独立の英雄から日本の若者へのメッセージか、それとも、日本とアジアとがいかに憎しみあったかを調べさせる大阪書籍の課題か。いずれが未来を担う子供たちの教科書にふさわしい内容であり、かつアジアとの友好に資するものであるか、教科書執筆者にはよく考えていただきたいものである。
子供たちには、祖国日本の来歴に自信と誇りを持ってもらいたい。それとともに、父祖が命をかけて築き上げたアジアとの友好をいっそう育んでもらいたいものである。
したがって、歴史の暗部を子供たちに執拗に突き付ける各教科書(扶桑社を除く)の陰湿な記述に代えて、わが国とアジアの人々とが力を合わせて欧米列強のアジア支配を打ち砕いたという、堂々たる栄光の歴史を記述すべきである。



大東亜会議および大東亜共同宣言につき加筆すべきである


 そうした観点から、大東亜会議の開催、および大東亜共同宣言の採択は、欠くことのできない出来事である。
 大東亜会議は、一九四三(昭和一八)年十一月五日、東京で開催された。会議には、ビルマのバー・モウ首相、満州国の張景恵、中華民国の汪兆銘院長、タイのワンワイ・タヤコーン殿下、フィリピンのラウエル大統領、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班、そしてわが国の東條英機首相が参加し、大東亜新秩序の建設、ひいては世界平和の構築について協議した。いうなれば、アジアにおけるサミットのようなものである。

 この会議は、けっして日本の戦争を正当化するためにアジア各国の傀儡政権の代表を集めた単なるパフォーマンスなどではなかった。
 たとえば、本会議での演説に先立ち、わが国が各国の代表に対して、正確な日本語に翻訳するため、との理由で演説の草稿をあらかじめ提出するよう求めたところ、ラウエルとチャンドラ・ボースがこれを拒絶した。その理由として、ラウエルは、こう答えている。

たとえ草稿があったとしても、提出する意思はない。事前の草稿提出は、日本側の検閲を受けることを承認するに等しいからである。
(深田祐介『大東亜会議の真実』p36)

 そして結局、二人とも草稿なしで演説を行った。このエピソードからも、大東亜会議が単なるパフォーマンスなどではないことが明らかであろう。
 この大東亜会議の末、大東亜共同宣言がまとめられた。
 宣言の前文では、大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の支配から解放して自存自衛を果たし、大東亜新秩序を建設し、もって世界平和の確立に寄与する、との理念が謳われた。そして、大東亜新秩序建設の指針として、次の五か条の綱領を掲げた。

一、大東亜各国は共同して大東亜の安定を確保し道義に基く共存共栄の秩序を建設す(軍事上の共同防衛)
一、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す(政治上の平等関係)
一、大東亜各国は相互にその伝統を尊重し各民族の創造性を伸暢し大東亜の文化を昂揚す(伝統文化の相互尊重)
一、大東亜各国は互恵の下緊密に連携しその経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す(経済上の互恵関係)
一、大東亜各国は万邦との交誼を篤うし人種的差別を撤廃しあまねく文化を交流し進んで資源を開放しもって世界の進運に貢献す(世界との交流促進)

 この大東亜共同宣言こそ、わが国の戦争遂行の理念を端的に表現したものであって、連合国側の理念を表現した大西洋憲章に匹敵するものである。
 バー・モウは、大東亜会議が開催された感動を、自伝にこう記している。

この偉大な会議はアジアにわき起こっている新しい精神を初めて体現したものであり、それは十二年後、アジア・アフリカ諸国のバンドン会議で再現された精神であった。この精神は、すでに一九四三年の東京での会議でうぶ声をあげたものだったのだ。
(バー・モウ『ビルマの夜明け』p351)

 一九五五年に開催されたバンドン会議(第一回アジア・アフリカ会議)では、かつて植民地支配下にあった国々の代表が集まり、反植民地主義、経済協力の推進、平和共存、民族自決、人類平等などが決議された。この会議の開催が、当時はまだ植民地支配下にあったアジアやアフリカの人々を大いに勇気づけ、以後、次々と独立を果たすことになる。教科書の多くも、この会議の開催を採り上げ、肯定的に記述しているが、その源流が、わが国の主催した大東亜会議にあると高く評価しているのである。

 このような大東亜会議の開催、大東亜共同宣言の採択と、さきに紹介した東南アジア各国指導者達の発言とを照らし合わせるならば、わが国が唱えた「大東亜共栄圏建設」が決して単なる宣伝のためのスローガンではなかったことは明らかであろう。
 この点、日本書籍新社と扶桑社は大東亜会議の開催を記述し、大東亜共同宣言についても触れているが、日本書籍新社(p202)は、「この会議では、英米の植民地支配からアジアを解放することが宣言されました。しかし、このようなスローガンには説得力がありませんでした。……『大東亜共栄圏』はたんなる宣伝のためのスローガンにすぎなかったのです。」と断じている。しかし前述のように、会議に参加したバー・モウは、この会議の成果を高く評価しているのである。日本の教科書であるにもかかわらず、なぜここまで徹底的に日本史の光の部分を打ち消し、より暗く日本史を描きたがるのであろうか。
 その他の教科書は、大東亜会議の開催や大東亜共同宣言について黙殺しているが、長きにわたり欧米の植民地支配下にあったアジア諸国、有色人種の首脳が一堂に会したという重大な出来事は、東洋史における基本的事項といってもよかろう。そのような基本的事項がスッポリ抜け落ちているというのは、重大なる欠陥といわざるを得ない。
 したがって、アジア首脳が集い、東京で大東亜会議が開催されたこと、大東亜共同宣言が採択されたこと、そしてアジアの人々がこの成果を高く評価したことを、加筆することを要する。



高砂義勇隊の活躍を記述することを提案する



 大東亜戦争では、日本人のみならず、日本統治下にあった台湾の人々もまた勇敢に戦った。特に、高砂義勇隊の活躍がよく知られている。
当時、台湾の先住民は高砂族と称されていた。高砂族は、台湾の山岳地帯に住み、焼畑農業のほか密林に入り狩猟も行っていた。
 1942(昭和17)年、日本軍はフィリピンの要塞を攻略しようとしたが、深い密林と山岳に阻まれた。そこで、そうした自然環境を熟知した高砂族に着目したのである。軍の要請を受けて台湾総督府が志願を募ったところ、予想をはるかに上回る約五千人もの人々が応募した。中には血書や血判の志願書を持参した者もあった。
 彼らはきわめて勇猛果敢であり、軍務にも忠実であった。そして密林や山岳での作戦を難なくこなし、大いに活躍した。こうして彼らは、日本人からも尊敬の念をかちえたのである。
 また、密林で狩猟を行っていた彼らは、密林での食糧調達でも活躍した。その際、自分達よりも衰弱した日本兵に食糧を与えるため、みずから調達した食糧に手をつけず餓死してしまった者もいたという。
 高砂族の従軍者数は六千〜八千といわれるが、そのうち戦死者は三千人にも及ぶという壮絶なものであった。にもかかわらず、ある高砂族の古老は、こう語ったという。

我々は台湾に来たオランダにも鄭成功にも、そして清国に対しても屈従しなかった。しかし、日本だけは別だった。それは、大東亜戦争の魅力には勝てなかったからだ。
(小林よしのり『台湾論』一四九頁)

 南方から帰還した多くの日本人将兵が「高砂兵のおかげで生き延びられた」と感謝の言葉を残している。
 このように、大東亜戦争の意義を高く評価し、日本国や日本兵のため率先して活躍してくれたにもかかわらず、扶桑社を除く各教科書のように、「大東亜戦争(太平洋戦争)=悪」「アジアの人々=日本軍国主義の犠牲者」といったことばかりを強調していては、その活躍は日本人の記憶から忘れ去られてしまい、その恩に感謝することもなくなってしまう。高砂義勇隊ばかりではない。前述のように、日本に積極的に協力してくれたアジアの人々についても同様である。つまり、各教科書のような歴史認識こそ、無知にして、かつ恩知らずな日本人を育て、台湾はじめアジア諸国の人々との友好を破壊してしまうといっても過言ではない。
 血書嘆願により志願して日本兵となったある台湾人は、こう訴える。

かつての日本人である私は、良心に訴え、声を大にして叫びたい。当時の状況を公平に申せば、彼等(=欧米諸国 引用者註)の侵略に抵抗して日本が戦ったからこそ、台湾の我々も聖戦と信じて参戦したのである。もし大東亜戦争が侵略戦争であったなら、国の礎となった二百四十万の英霊は「犬死」となり、生き残りの我々は「負け犬」となる。侵略戦争だと決められては護国の英霊が余りにも可哀相であり、参戦した我々もどうして黙っていられよう。
(鄭春河『台湾人元志願兵と大東亜戦争』五十五頁 原文は旧仮名遣い)

 当時の日本を貶めることは、同時に、日本に協力してくれたアジアの人々をも貶めることになるのである。やみくもに反省し、的外れな謝罪を繰り返せばいいというものではないのである。
 したがって、日本のため勇猛果敢に戦った高砂義勇隊の活躍を日本人の記憶に留め、後世に伝え、ひいては日台両国の友好をいっそう深めるためにも、教科書に記述することを提案する。



大東亜戦争での朝鮮人の活躍を掲載することを提案する



アメリカ大統領ルーズベルト君、君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、(わが国が)パリ講和条約の序文に人種差別撤廃文案を挿入しようとしたときこれに反対し削除したのはどこの国だ?黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にも着かせずアフリカ大陸で奴隷狩りをしたのはどこの国であったか?……しかし君らの悪運はもはや尽きた。一億同胞なかんずく半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦勇士とならんことを誓っている!(朱耀翰=韓国・元国会議員)

 台湾人のみならず、朝鮮人の中にも、率先して戦争に協力し、活躍した人物が数多くいた。

 これまでにも紹介した慶尚南道出身の朴春琴(ぼくしゅんきん)は、東京4区から衆議院議員選挙に出馬し、昭和7年、同12年の二度当選を果たしている。彼は、朝鮮在住の人々への参政権付与とともに、朝鮮における徴兵制の実施を訴えた。後にこれらが実現することとなるが、議員であった当時は軍部が「時期尚早」として徴兵制の実施を渋ったため、徴兵制が無理ならば志願兵制を実施せよと訴え、これを実現させた。
 そして朝鮮で志願兵制度が実施されるや、次のように、数多くの朝鮮人がこれに志願した。
  募集人員  志願者数 倍率
1938年  406 2,946  7.3 
1939年  613 12,528   20.8
1940年  3,060  84,443  28.0
1941年  3,208  144,743  45.1
1942年  4,077  254,273  62.4
1943年  6,300  303,294  48.1

      

 中には、半ば強制的なものもあったかもしれないが、それよりもむしろ、これに先立つ金錫源(きんしゃくげん)少佐の活躍が朝鮮の青年を奮い立たせたのであろう。
 彼は支那事変で大隊長として日本軍を率い、全滅覚悟の激戦を指揮して、白兵戦で中国軍を殲滅した。この武功に対し、朝鮮人として初めて金鵄勲章功三級を受章している。朝鮮人である金少佐が、日本人兵士を率いて、長きにわたり宗主国として朝貢してきた中国の軍隊を撃破したとの活躍に、朝鮮人は熱狂したのである。

 志願兵募集に応じた中に崔慶禄(さいけいろく)がいた。彼はその抜群の勤務成績ゆえに、陸軍士官学校を受験するよう推薦され、見事難関を突破して合格した。しかし、大戦のさなかに士官学校へ行っていては第一線でご奉公のときを失うと考えた彼は、「日朝の大義に生きるべし」として、あえて戦地へおもむいた。ニューギニアに出征した彼は、斬込隊長として三度の斬り込みを敢行したが、その際、敵の銃弾を受けて瀕死の重傷を負った。このとき、以前から彼を知り親しく付き合いのあった参謀長・小野武雄が彼を発見し、その尽力でかろうじて一命を取りとめた。
 戦後、彼は駐日韓国大使として日韓親善に尽くすこととなった。そして平素から、「小野大佐は命の恩人であり、私は実子以上に父としての愛を受けた」と語っていたという。
 彼の次の言葉は、ぜひ政治家各位の心に留めておいていただきたいものである。

「戦前の日本人には、信頼できる立派な人々が多かった。それに対して現在の日本の政治家は周囲に気兼ねしてか、正直に本当の事を言う人が皆無に近い。私がもし日本の首相だったら、一日でよい、洗いざらい本当のことを発言してみたい。それでやめさせられたら本望だし、それによって国民の目は覚め、日本は本来の姿にたちかえるに違いない。」

 特攻隊に志願して散った朝鮮人もいた。
 その一人、金尚弼(きんしょうひつ、日本名・結城尚弼)は、京城の専門学校を卒業した後、陸軍航空隊を志願し、難関を突破してこれに合格した。
 ある日、彼の配属された隊内の演芸会で「私は朝鮮出身です。少しアクセントが違いますが、日本の歌を歌います」と言うと、隊員から「アリランを歌え」「そうだ、そうだ、アリランを聞かせてくれ」との声があがった。金が「では母国の朝鮮語で歌います」と言って歌い、歌い終わると拍手喝采の嵐が起こったというエピソードが残っている。
 戦況が悪化した1945(昭和20)年2月11日、彼は特攻隊に志願した。これを知った彼の兄は逃亡するよう彼を説得したが、彼はこう答えた。

「自分は朝鮮を代表している。逃げたりしたら、祖国が笑われる。多くの同胞が、一層の屈辱に耐えねばならなくなる。」
「僕は日本人になりきって日本のために死のうとしているのではありません。そこをよく解って欲しいのです。お父さんとお兄さん、この二人の意志を継ぐために、日本を勝利に導いて、その暁に我々の武勲を認めさせて独立にもってゆくことなのです。大東亜共栄圏として、ビルマ、インドネシア、朝鮮、みな独立の道があるはずです。日本が強くなればなるほど、地下の独立運動は無力となりますから、それより日本に協力して独立を勝ち取る、その方が確かだと思うのです。
日本人が憎くない、というとそれは嘘になりますが、僕は少年飛行兵出身の部下を連れてゆきますし、今日一緒に来てもらった佐藤曹長からは、親身の整備をしてもらいました。戦友や部下たちとは、一心同体であり、民族のしこりや壁はありません。……
民族の魂は売り渡していません。朝鮮の魂で頑張ってきました。僕の考えはきっと御先祖様も許して下さると思うのです。」

そして同年4月3日、圧倒的な数の米軍戦闘機と艦隊からの対空砲火網の中、艦船群に突入し、24歳の若さでその生涯を閉じた。

わが国で最もよく知られる朝鮮人将校である洪思翊(こうしよく)中将は、朝鮮人であり、しかも貴族の出身でもなかったが、四書五経から英語にまで精通し、さらに戦史・戦術の専門家でもあるという類まれなる才能ゆえに、陸軍中将という地位にまで上りつめた。当然ながら、日本人もその指揮下にあって命令に従っていたのである。
 1909(明治40)年9月、わが国は韓国軍の中から36名を選抜し、陸軍中央幼年学校に入学させた。彼はそのなかの一人であった。
 その1年後、韓国が日本に併合されたことで彼らはどうすべきか悩んだ。結局、一応教育だけは受け、任官してから出処進退を決めることにして訓練に励んだ。その後朝鮮で三・一独立運動がおこった際、これに身を投じ、光復軍(朝鮮独立軍)の司令官となった者もいた。彼も参加するよう誘われたが、今は隠忍自重し折を見るべきだと考え、これに参加することなく、陸軍大学校を卒業し、日本陸軍の将官となった。
 とはいえ、日本軍の中枢にありながらも彼はけっして朝鮮人としてのアイデンティティを失わず、指揮官として赴任するたびに、
「自分は朝鮮人の洪思翊である。今から天皇陛下の御命令により、指揮をとる。異議のある者は申し出よ。」
と訓示したという。創氏改名が実施された際も率先してこれを行うよう説得されたが、これを拒み、洪思翊との朝鮮名で通した。
 フィリピンで捕虜収容所の所長をしていた彼は、戦後、戦犯裁判にかけられた。その際もすべての証言を拒否するという気概を見せたが、結局、捕虜虐待という無実の罪により処刑された。その際

昔より冤死せしものあまたあり われもまたこれに加わらんのみ

との辞世を残している。最期まで彼は気骨のある武人であり続けた。

 戦争が終わった後もインドネシアに数多くの日本兵が残り、インドネシア独立のために戦ったことは前に述べたが、その中にも朝鮮人がいた。その一人が梁七星(りょうしちせい)・日本名=梁川七星、インドネシア名=コマルデン)もその一人である。
 彼は終戦後のある日、朝鮮の実家に宛てて「いま国に帰っても仕方がないので、こちらの暑い国にもうしばらく留まる」との手紙を出した。そして、青木政四郎(インドネシア名=アブバカル)や長谷川勝雄(インドネシア名=ウスマン)とともに、インドネシア祖国防衛義勇軍に加わった。
 青木はオランダ軍が高額の懸賞金をかけるほどの優れた戦士であり、また「民家のものはけっして奪うな。日本人でも女を襲ったり物品を略奪したら撃ち殺す」と規律を厳格に維持した。梁はこうした青木の姿勢とその抱く理想に深く共感した。
 彼らはインドネシアの人々と力を合わせて奮闘し、オランダ軍を大いに悩ませたが、1948年11月、オランダ軍の奇襲を受け、激しい戦闘の末オランダ軍に捕えられた。そして翌1949年8月10日、処刑された。
 しかし、インドネシアの人々はもはやオランダ軍を恐れることはなかった。彼らの遺体が墓地まで運ばれる間、沿道の人々は、オランダ軍を気にすることなく、口々に「ムルデカ(独立)!」「ムルデカ!」と叫んで三人を見送ったのである。

それから4ヶ月後の12月27日、オランダはついにインドネシアの支配を断念し、インドネシアは完全独立を果たした。三人はいまも、インドネシアの英雄墓地に眠っている。

(以上、名越二荒之助『日韓共鳴二千年史』等参照)

 ほかにも数多くの朝鮮人が、日本のため、あるいは朝鮮のため、あるいはアジアのため、貴い命をかけて戦った。その心の中には、特攻隊員として散華した金尚弼の言葉のように日本人には理解しがたい葛藤もあったであろうが、いずれにせよ、彼らはまぎれもなく、わが国の護国の英雄である。
 祖国韓国では、こうしてわが国に協力した人々には今もなお冷たい視線が向けられている。わが国でも、単なる「日本軍国主義の犠牲者」として片付けられてしまい、そうした人々の活躍がかえりみられることはほとんどない。
 せめてわが国では、彼らに対する敬意と感謝の念を捧げることをけっして忘れてはなるまい。そして、ひいてはいまの韓国人に対する感謝の気持ちを失わないことこそ、日韓両国間の歴史認識の問題をめぐるわだかまりを解消する端緒となるのではなかろうか。

 いずれは、人類史上に残る聖戦・大東亜戦争をともに戦い抜いた戦友として、互いに尊敬しあい、誇りを分かち合うことのできる真の友好関係が日韓両国間に構築されることを願い、まずは日本の教科書に、以上のような朝鮮人の活躍を記述することを提案する。

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