第九章 大東亜戦争(太平洋戦争)@〔開戦への経緯〕


日本側の呼称である「大東亜戦争」を正式呼称とすべきである


さきの戦争の呼称として、扶桑社だけが「大東亜戦争」を採用するほかは、各社とも「太平洋戦争」を採用している。大阪書籍および教育出版は脚注に「大東亜戦争」との呼称を記述しているものの、清水書院、帝国書院、日本書籍新社などは、ごく最近に単なる思い付きでつくられた「アジア太平洋戦争」との俗称まで掲げる一方、「大東亜戦争」との呼称は記述していない。

「大東亜戦争」との呼称は、一九四一(昭和十六)年十二月十二日、閣議で、「支那事変」をも含む呼称として採用されたものである。ところが終戦後、GHQによって「大東亜戦争」との呼称は、「八紘一宇」などとともに、軍国主義や過激なる国家主義を連想させるとの理由で、公文書での使用が禁じられた。しかしその真意は、さきの戦争を、日本によるアジアへの侵略戦争と位置づけるべく企図していたGHQにとって、「大東亜戦争」との呼称が、「大東亜共栄圏建設」という理想を想起させ、さきの戦争における日本の行動を正当化しかねない、との懸念から使用を禁じたものである。そこでこれに代わって用いられたのが、アメリカ側の用いていた「太平洋戦争」との呼称である。

アメリカの占領下にあってこの指令に従うのはやむを得ないとしても、一九五二(昭和二十七)年に主権を回復してから半世紀以上も経たいま、もはやそのような指令に拘束されるいわれはない。むしろ、後述のように「大東亜共栄圏建設」の理想のもと、我々の父祖が多大なる犠牲を払いながら奮闘したことがアジア諸国の独立に大いに貢献したことを、堂々とわが国の誇るべき歴史として子供たちに伝えるべきであろう。

したがって、日本側の正式呼称であった「大東亜戦争」こそ、日本の教科書の中では正式な呼称とすべきであり、アメリカ側の呼称である「太平洋戦争」との呼称は括弧書きないし脚注とすべきである。そして「アジア太平洋戦争」との俗称は、わざわざ教科書に記載する必要はない。
日本は八千万に近い膨大な人口を抱え、それが四つの島の中にひしめいているのだということを理解していただかなくてはなりません。その半分が農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。……
日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。
もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。
(小堀桂一郎『東京裁判 日本の弁明』五六四頁。原文は旧仮名遣い)

これは、ダグラス・マッカーサーの言葉である。戦後、連合国軍最高司令官としてわが国に君臨し、東京裁判を開廷して、わが国を「侵略国家」として追及したマッカーサーが、後にわが国の置かれていた立場を理解し、一九五一年五月三日、アメリカ合衆国議会でこう証言したのである。実際には「失業者の発生」どころではなく、生活物資も制限されるなど、まさにわが国の存亡の危機だったのではあるが、いずれにせよ、マッカーサーさえ認めているように、大東亜戦争は、わが国の自存自衛のための戦争であった。

わが国がアメリカやイギリスとの戦争に踏み切らざるを得なかった背景に、世界恐慌、およびそれにともなう諸外国のブロック経済化の進展があった。

一九二九年十月二十四日、ニューヨーク・ウォール街で株式相場が大暴落し(いわゆる暗黒の木曜日)、その影響が全世界に広まり、世界恐慌に陥った。

そうした中、一九三〇年六月、アメリカはホーリー・スムート法を成立させた。この法律は、不況下で国内産業を保護するため、アメリカに入ってくる輸入品に対し高率の関税を課し、輸入を抑制しようというものである。

イギリスもまた、一九三二年七月、カナダのオタワで、イギリス帝国経済会議(オタワ会議)を開催した。同会議では、イギリス帝国(イギリス本国およびインド・カナダなどイギリスの自治領や植民地)に属する九邦の代表が参加し、イギリス帝国内での貿易の保護化が決定された。イギリス帝国内における原料や商品の移動には、非課税または低関税を課すのみとする一方、帝国外からの輸入品に対しては高率の関税を課すことが決せられたのである。

こうして、当時わが国最大の貿易相手国であったアメリカと、世界の四分の一にも及ぶ広大な領土を有していたイギリスが相次いで貿易保護を図り、その他の主要国も次々とブロック経済化を進めたことで、貿易立国であったわが国は窮地に立たされた。

そこでわが国は、満洲および中国に活路を求め、一九三八(昭和十三)年十一月、近衛文麿首相は東亜新秩序の建設を声明した(第二次近衛声明)。日本・満洲・中国を統合した独自の東アジア経済圏をつくろうとしたのである。

しかしアメリカは、中国大陸における門戸開放、機会均等を主張して、これを認めなかった。そして、この声明への対抗措置として、一九三九(昭和十四)年四月、日米通商航海条約の廃棄を通告し、翌一九四〇(昭和十五)年一月、同条約は失効した。こうして、江戸時代から続いた日米間の通商関係は解消されるにいたった。その結果、軍需物資のみならず生活物資までも、対日輸出が制限されたのである。

さらに十月には、日本軍が北部フランス領インドシナ(仏印=いまのベトナム・ラオス・カンボジア)へ進駐したのを口実に、アメリカは、鉄の対日全面輸出禁止に踏み切った。当時、わが国の屑鉄の輸入の約七割は、アメリカからの輸入であった。これがストップしたのである。

この北部仏印進駐は、援蒋ルートを断つために行ったものである。第七章で述べたように、米英の援蒋行為が行われていたことで支那事変がドロ沼化していた。そこで、支那事変を早く終わらせるために、援蒋ルートを断ち切るべく、フランスとの協定によって進駐したのであって、けっしていわゆる侵略ではない。しかし、これに対してアメリカは、右のような対抗措置をとったのである。

こうした情勢を受けて、わが国は、石油はじめ重要資源を確保するため、オランダ領東インド(いまのインドネシア)を領有していたオランダとの交渉を行った。しかし、一九四一(昭和十六)年六月に提出されたオランダ側の最終回答は、とうていわが国の満足しうるものではなく、交渉は決裂した。そして同年七月二十八日、オランダもまた、日本に対する輸出入の制限を発表した。

こうして、いわゆるABCD包囲網(アメリカ〔America〕、イギリス〔Britain〕、中国〔China〕、オランダ〔Dutch〕による日本に対する経済封鎖)が形成されていったのである。

さらにこれに追い討ちをかけるように、一九四一(昭和十六)年七月、アメリカは最後的対日経済制裁、つまり日本に対する石油輸出禁止措置の検討をはじめた。当時、わが国が輸入していた石油の大半は、アメリカからの輸入であった。それを止めてしまおうというのである。

戦後、東京裁判の中で、被告人の弁護を務めたウィリアム・ローガン弁護人はこう述べている。

一九四一(昭和十六)年七月二十六日の最後的対日経済制裁を米国大統領が真剣に検討していた時、彼はかかる措置の当否について軍部首脳の意見を求めました。これに対する軍部の答弁は、「対日貿易は禁止すべきではない。もし禁輸を行えば、恐らく極めて近い将来において日本はマレーおよびオランダ領東インド諸島を攻撃するに至り、そして、恐らく米国は近い将来に太平洋戦争の渦中に巻き込まれることとなろうから」というのでありました。現実主義的権威筋がほとんどこぞって、日本に対し徹底的経済制裁を加えることは重大なる戦争の危機を意味する、と主張したのみならず、日本側からの米国国務省に対する批判もまた、「そのような行動は、日本を、遅かれ早かれ、ゴムその他の物資確保のためマレー半島およびオランダ領東インド諸島に南下せざるをえない状態に追い詰めることになろう」というのでありました。
(小堀桂一郎『東京裁判 日本の弁明』四一八頁 一部要約)

このように、経済封鎖措置に出れば、日本が物資を確保するため、東南アジアに進攻し、日米戦争に至るであろうことを、アメリカは認識していた。にもかかわらず、八月一日、日本軍の南部仏印への進駐を口実に、対日石油輸出禁止措置に出た。

この南部仏印進駐は、戦争のやむなきにいたった場合に備えて軍事拠点を押さえておく、という意味合いもあったが、それよりもむしろ、右のような経済封鎖を受けて、コメやゴムなどの物資を確保するため、せめて仏印とタイだけは米英に押さえられる前に押さえておきたい、という必要に迫られてのものであった。この進駐もまた、先に述べた北部仏印進駐と同様、フランスとの協定に基づいて合法的に行われたものであって、侵略などではない。しかしアメリカは、これを口実に、最後的対日経済制裁を実施したのである。

このように悪化する一方の日米関係を何とか立て直そうと、八月、近衛首相は、日米首脳会談を企図した。直接ルーズベルト大統領に会って日本の真意を率直に伝えようとしたのである。しかしアメリカ側がこれを受けず、結局、首脳会談が実現することはなかった。

こうした情勢を受けて、九月六日の御前会議(天皇御臨席のもと重臣や大臣が集まって重大事項を審議する会議)では、対米戦争もやむなし、との決定がなされた。
ところが、これに対し昭和天皇は、

四方の海みな同胞と思世に など波風の立ち騒ぐら

との明治天皇の御製を詠み上げられた。世界中の人々がみな兄弟と思えば、なぜ争いなど起こることがあろうか、との意味である。こうして、何とか戦争を回避したい、との御意向を示されたのである。

そして十月十八日に首相に就任した東條英機に対しても、九月六日の御前会議の決定を白紙に戻してもかまわないから、アメリカとの和平に向けて努力せよ、との御意向を伝えられた(白紙還元御諚)。この御意向を体して、東條内閣は、開戦反対派の東郷茂徳を外相にえた。

軍人である東條が首相と陸相、さらに内務相をも兼任したことをとらえて「軍部独裁の内閣」あるいは「戦争推進のための内閣」と評価されがちだが、それは誤った認識である。東條が東郷に外相就任を要請した際、こう語っている。

自分は日米交渉進捗のため軍部を抑えなければならない。そのために総理と陸相とを兼務することにしたのだ。だから君は平和主義を実行することが出来る。
(土屋道雄『人間東條英機』一三八頁)

要するに、東條内閣は、「物資が完全に枯渇してしまわないうちに戦争を始めるべきだ」と主張する軍部を抑えつつ、なおも平和外交を継続するための内閣だったのである。

そして十一月、日本政府は、「案」「案」という、わが国のギリギリの譲歩案をアメリカに提示した(後に詳述)。

しかし、最初から交渉に応じる意思がなく、むしろ日本の対米攻撃を望んでいたアメリカは、これに関心を示すことなく、十一月二十六日、それまでの日米交渉の経緯をまったく無視して、ハルノートを日本に突きつけた(後に詳述)。

これを受けてわが国は、アメリカ側に和平実現の意欲がないことを悟り、十二月一日の御前会議で開戦が決せられ、十二月八日、大東亜戦争開戦にいたったのである。

その他諸々の要因(たとえばアメリカにおける人種差別的反日意識など)もあったであろうが、おおよそ以上が、大東亜戦争に至った経緯である。

以上を要するに、アメリカ・イギリスなどがブロック経済化をおし進める一方、同じくアジアに独自の経済圏を構築して活路を求めようとしたわが国に対し、これを阻止すべく経済制裁が行われた。わが国は戦争を回避すべく粘り強くアメリカとの交渉を続けたが、アメリカが提示したハルノートによって交渉は決裂し、戦争に踏み切らざるを得なかったのである。

にもかかわらず、扶桑社を除くほとんどの教科書は、以上のような世界情勢や、対米戦争回避に向けてのわが国の努力、米英の深慮遠謀などに触れていない。それどころか、軍国日本によるアジアへの侵略を阻止すべく、アメリカ・イギリスなどが経済制裁を行いつつ日本軍の撤退を要求したが、日本がこれに応じなかったため、戦争に至ってしまった、という文脈で記述している。たとえば、次のような記述である。

中国との戦争が長期化していた日本は、東南アジアに植民地をもつイギリスやフランスなどがヨーロッパ戦線に主力を注いでいる間に、この地域の資源を獲得するために進出しました。……

アメリカは、このような日本の侵略的な行動を強く警戒し、日本がフランス領インドシナを占領すると、日本に対する軍需物資の輸出を制限し、石油の輸出も禁じました。こうして、日中戦争解決のための日米交渉もうまくいかなくなるなか、日本は、アメリカとの戦争を決意しました。1941年12月8日、日本はハワイの真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が始まりました。
(東京書籍 一九二頁)

悪辣な侵略国家=日本≠ニ、これを阻止する平和愛好国家=アメリカ≠フ対立という図式である。かつての敵将マッカーサーさえも日本の自衛戦争であったと認めている大東亜戦争を、なぜ日本の教科書が「侵略」と断じ、日本に全面的に非があったかのように記述して、祖国を悪しざまに貶めようとするのであろうか。

以上の史実を踏まえつつ、先の戦争を、わが国の防衛戦争とする立場から記述すべきである。


戦争を決定的にした「ハルノート」に触れるべきである


前述のように、アメリカがわが国に突きつけたハルノートが日米開戦を決定的にした。

一九四一年四月以降ハルノートの提示にいたるまでの七ヶ月間、わが国の野村吉三郎駐米大使とアメリカのコーデル・ハル国務長官との間で、度重なる交渉がおこなわれた。

この間、わが国は交渉成立に向けて、できうる限りの努力をした。たとえば、アメリカに対して強硬的な松岡洋右が気に入らない、とのアメリカの非難を受けて、第二次近衛内閣は松岡を外相から外して第三次近衛内閣を成立させた、というエピソードもある。また、八月には日米関係の極度の悪化を打開すべく近衛首相が日米首脳会談を企図したことや、その後成立した東條内閣もアメリカとの和平交渉を続けるための内閣であったことは前述のとおりである。

交渉を重ねた末、わが国は、「甲案」および「乙案」という二つの妥協案を提示した。

「甲案」の内容は、次のようなものである。

@通商無差別原則(自由貿易原則)が全世界に適用されるならば、太平洋全域(中国を含む)においてもこれを認める。
前述のように、わが国は日本・満洲・中国を統合した独自の東アジア経済圏をつくろうとしていたので、中国における自由貿易原則は認めない、との立場をとっていた。しかし、そもそもわが国が東アジア経済圏の樹立を企図したのは、アメリカやイギリス、オランダなどが自由貿易を認めなくなったからなので、これらの国々が自由貿易を認めてさえくれれば、中国においてもこれを認める、としたものである。要するに、「中国で自由に経済活動をさせろ」というアメリカの要求を条件つきで受け入れたものである。

A三国同盟による参戦義務が発生したかどうかの解釈は、あくまでも自主的に行う。
わが国がドイツ・イタリアと締結した日独伊三国同盟の第三条では、三国のいずれかが「現在第二次世界大戦または支那事変に参入していない一国」(要するにアメリカ)によって攻撃されたときは、あらゆる政治的、経済的、軍事的方法でお互いに助け合うものと規定されていた。これを文字通り解釈すれば、ドイツ・イタリアがアメリカに攻撃された場合、わが国はアメリカを攻撃し、ドイツ・イタリアを助けなければならないこととなる。しかしわが国は、日本の自主性を第一とし、日本の自主性を曲げてまでドイツ・イタリアの指図は受けない旨を表明した。つまり、アメリカがドイツ・イタリアを攻撃したとしても、それがアメリカの自衛のための正当な攻撃と認められるものであれば、日本は必ずしもアメリカを攻撃しない、と表明したのである。現に、この甲案を提出した時点で、アメリカとドイツはすでに戦闘状態に入っていたが、わが国はアメリカを攻撃することなく、戦争回避に向けて交渉を続けていた。つまり、アメリカの要求に応じて、日独伊三国同盟を事実上死文化していたのである。

B中国からの撤兵問題について、一部地域の日本軍は日中和平が成立した後も所要期間駐屯するものの、その他の日本軍は和平成立とともに撤兵をはじめ、二年以内に完了する。仏印の日本軍については、支那事変の解決、または公正な極東平和の確立とともに、ただちに撤兵する。
日米交渉の中で、アメリカは、日中間の平和成立後二年以内に日本軍が全面撤兵するよう主張していた。甲案では、原則としてこの要求をそのまま受け入れたのである。ただし、共産主義の脅威を防ぐため、例外的に一部地域で「所要期間」駐屯するものとした。この「所要期間」についても、おおむね二十五年間との期限を設けた。無期限の駐屯に難色を示していたアメリカの意向をふまえて、こうした期限を明確に示したのである。
仏印については、もともとわが国が進駐したのは、援蒋ルートを断ち切って支那事変を終結させるためなので、支那事変さえ解決すればすぐに撤兵する、との意図を明確にしたのである。

このように、「甲案」は、わが国がアメリカ側の要求を受け入れ、大幅に譲歩した提案だったのである。

この「甲案」でもなお交渉が成立しない場合に備えて、日米戦争勃発を防止し、交渉をさらに続けるための暫定措置案として作成されたのが「乙案」である。「乙案」では、次の条件を提示した。

@日米両国政府は、現在日本軍の駐屯する仏印を除き、東南アジア及び南太平洋地域に武力進出を行わない。
A日中間の平和回復、または太平洋地域における公正な平和が確立された暁には、仏印から軍隊を撤退する。乙案が成立すれば、当面、南部仏印の軍隊は北部仏印に移駐する。
B日米両国政府は、仏印において必要な物資の獲得が保障されるよう相互協力する。
C日米両国政府は、相互通商関係を資産凍結前の状態に復帰し、米国は石油の対日供給を行う。
D米国政府は、日中両国間の全面的平和回復に支障をあたえるような行為(援蒋行為)を行わない。

乙案は、要するに、日米両国の関係をせめて決定的に悪化する以前の状態、つまりわが国の南部仏印進駐およびアメリカの最後的対日経済制裁が行われる以前の状態に戻して、お互いに敵対的な行為をやめて平和的に交渉を続けよう、という提案である。

このように、わが国は、日米交渉の中で再三の譲歩を重ねつつ、なんとかアメリカとの交渉を成立させようと努めていたのである。

にもかかわらず、アメリカは「甲案」「乙案」に関心を示すことなく、十一月二十六日、わが国にハルノートを提示してきた。ハルノートには、「合衆国政府および日本国政府の採るべき措置」として、十項目にわたる措置が掲げられていたが、その内容は、それまでの日米交渉の経緯を踏まえたものではなく、アメリカ側の要求を一方的に押し付けるものであった。

たとえば、撤兵問題について、わが国が中国および仏印から一切の陸海空軍兵力および警察力を撤収するよう要求してきた。前述のように、アメリカは、日中間の平和成立後二年以内に日本軍が全面撤兵すべきことを主張していた。にもかかわらず、ハルノートでは突如、日中間の平和成立後という条件を設けることなく、しかも、陸海空軍兵力のみならず警察力をも撤収することを要求してきたのである。そのようなことをすれば、中国に移り住んでいた数多くの邦人の身の安全は確保されず、邦人は中国にいられなくなる。つまり、日本国民はすぐに中国から出て行け、というに等しい要求なのである。

また、蒋介石政権以外の中国におけるいかなる政府・政権をも支持しないよう要求してきた。つまり、それまでわが国は、中国における親日的政権である汪兆銘政権を支持してきたが、その汪兆銘政権とは完全に縁を切って、これまで日本と対立してきた、アメリカの支持する蒋介石政権だけを中国の政府として認めよ、と要求してきたのである。これは要するに、それまでの中国での日本の行動を誤りと認めて、蒋介石に謝罪せよ、と要求するに等しいものといえよう。

さらに、一九〇一年の義和団議定書による諸権利をも含む中国における一切の諸権益の放棄という条件が掲げられた。これも、それまでの交渉の中では全く俎上にのぼることのなかった事項である。それを、突如要求してきたのである。

なお、この「中国からすぐに出て行け」「蒋介石政権以外の中国の政権を支持するな」「中国における一切の諸権益を放棄せよ」の「中国」に満洲が含まれるのか否かが、ハルノートでは明確にされておらず、現在でも議論の対象となっている。

もともとハルノートの原案では、「中国(満洲を含む)」との括弧書きが付されていた。つまり、「日本は満洲からもすぐに出て行け」と明確に要求していたのである。しかし、ハルノートが日本に手交される際に、この「(満洲を含む)」との括弧書きが外された。したがって、「あえてこの括弧書きを外したということは、ハルノートにおける「中国」には満洲は含まれないのだ」と解釈することも可能ではある。

しかし、「中国」に満洲が含まれるか否かは、日米間ではきわめて微妙な問題であった。したがって、もしアメリカが「日本は「中国」からは出て行け。ただし満洲は別である」という明確な意図をもっていたのであれば、「中国(満洲を除く)」と明記すべきところである。にもかかわらず、あえてこのような括弧書きを付することなく日本側に手交したことを勘案すれば、「アメリカが満洲国を承認したことはないのだから、『中国』に満洲が含まれるのは当然である。だからわざわざ書く必要はないだろう。」という意図で外したものとも解釈できる。

あるいは、あえてこの問題をあいまいにしておいて、「満洲の問題については、これからまたゆっくりと話し合いましょう」という時間稼ぎを狙っていたのかもしれない。

いずれがアメリカ側の真意かは定かではないが、アメリカが満洲国を国家として承認していなかったことを踏まえれば、少なくとも法理上は、アメリカがただ単に「中国」といった場合には満洲も含まれることになる。日本政府も、ハルノートの強硬な内容から類推して、そのように解釈した。つまり、ハルノートは「日本国民は満洲からもすぐに出て行け」「汪兆銘政権だけでなく、満洲国も否認せよ」「日露戦争で日本が獲得した満洲における諸権益をも一切放棄せよ」と要求するものだったといえよう。

交渉とは、両者がそれぞれのスタート地点からお互いに少しずつ歩み寄って妥協点を見出すよう努めるべきものである。したがってわが国は、何とか交渉を成立させようと、アメリカ側に大幅に譲歩した「甲案」「乙案」を提示した。しかしアメリカは、七ヶ月にもわたり日本と交渉したあげく、最後の最後になって、スタート地点よりもさらに手前に戻った要求を突如日本側に示してきたのである。

東条内閣の海軍大臣を務めた嶋田繁太郎海軍大将は、東京裁判で、その衝撃をこう陳述している。

それはまさに晴天の霹靂であった。アメリカにおいて日本のした譲歩がいかなるものにせよ、余はそれを戦争回避のための真剣な努力と解し、かつアメリカもこれに対し歩み寄りを示し、もって全局が収拾されんことを祈っていた。しかるにこのアメリカの回答は、頑強不屈にして、冷酷なものであった。それは、われわれの示した交渉への真剣な努力は少しも認めていなかった。ハル・ノートの受諾を主張したものは、政府部内に一人もいなかった。その受諾は不可能であり、その通告はわが国の存在を脅かす一種の最後通牒であると解せられた。この通告の条件を受諾することは、日本の敗退に等しいというのが全般的意見であった。
(田中正明『パール博士の日本無罪論』一五四頁)

また、パール判決文の次のくだりは、よく知られている。

現在の歴史家でさえも、つぎのように考えることができる。すなわち「今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に送ったものと同じような通牒を受取った場合、モナコ国(ママ)やルクセンブルク大公国でさえも合衆国にたいしてをとって起きあがったであろう。」(東京裁判研究会『パル判決書(下)』四四一頁)

さらにハル自身、ハルノートが戦争に直結するものであることを認めるかのように、十一月二十七日、陸軍長官スチムソンにこう語った。

私はそれ(=日本との交渉 引用者註)から手を引いた。いまやそれは君とノックスとの手中、つまり陸海軍の手中にある。
(実松譲編『現代史資料(34)太平洋戦争(一)』所収、「スチムソンの日記」十六頁)

ちなみに、ハルノートの原案を起草したハリー・ホワイト財務省特別補佐官が、実はソ連のスパイであり、ハルノート自体、ソ連で作成され、ホワイトによって手渡されたものであることが、のちに明らかになっている。つまり、支那事変では中国共産党の挑発によって日本と国民党が戦わされたように、大東亜戦争は、ソ連の挑発によって日本とアメリカが戦わされたようなものなのである。もっとも、大東亜戦争については、ルーズベルト自身が対日戦争を望んでいた点、支那事変の蒋介石とは異なるが、支那事変、大東亜戦争とも、背後にソ連があったといってよかろう。

それはともかく、以上のようなハルノートの重大性にもかかわらず、扶桑社を除くいずれの教科書もハルノートに触れていない。

日本文教出版(一八二頁)にいたっては、次のように、わが国に全面的に非があるかのように記述している。

アメリカは、日本の東南アジアへの進出に対して、イギリス・オランダとともに警戒心を強め、日本への石油輸出を禁止し、東南アジアからの日本軍の撤退を要求した。しかし、日本はこれをはねのけ、軍部は対米戦争の準備を進めた。

わが国がアメリカの要求(ハルノート)を「はねのけ」たのは、それがあまりにも理不尽なものだったからである。にもかかわらず、あたかもアメリカが穏当な要求を示したのに対し、好戦的なわが国がこれを強硬にはねのけて戦争に突き進んでいったかのように描かれている。戦争回避に向けたわが国の外交努力やハルノートの不当性を一切無視した、大東亜戦争にいたる経緯を歪めて伝えるきわめて不当な記述である。よって修正すべきである。

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