第八章 戦時体制下の朝鮮・台湾



創氏改名によって日本名が強制されたとの記述は修正ないし削除を要する



いずれの教科書も、「朝鮮では、『皇民化』の名のもとに……姓名のあらわし方を日本式に改めさせる創氏改名をおし進めました。」(東京書籍 一八九頁)のように、創氏改名によって朝鮮人が強制的に日本式の姓名ないし氏名に改めさせられた旨を記述している。しかし、たとえば朝鮮出身の日本軍の将官であった洪思翊中将が、戦前・戦中を通じて「洪思翊」との朝鮮名を改めなくとも何ら差別を受けることなく日本軍の中枢で活躍し、朴春琴衆議院議員もまた「朴春琴」のまま帝国議会に参加していたように、創氏改名によって朝鮮名を無理やり日本名に改めさせたというのは史実に反する。

そもそも、創氏改名は朝鮮人の要求に応えて認められたという面が強い。

当時、朝鮮人側から改名への要望がかなりあったことは事実であった。要望は主に満州に移住した朝鮮人から出されたもので、朝鮮が歴史的に中国の属国の地位にあったことから、中国人から朝鮮人が不当な扱いを受けることが多く、「我々も日本国籍をもつ以上日本名を名乗らせて欲しい」という要望が、総督府にたびたび寄せられていたのである。
(秦郁彦編『昭和史20の争点 日本人の常識』所収、呉善花「創氏改名は強制だったか」五十頁〜五十一頁)

しかし、朝鮮には、「姓は変わらず」「同姓らず」「異姓わず」という伝統があった。

「姓」とは、その人物がどの父系に属するのかを示すものであり、たとえば父親が洪ならば洪のまま、朴ならば朴のまま、結婚しても生涯変わることはない。これが「姓は変わらず」である。そして「同姓娶らず」とは、本貫(祖先の発祥地)を同じくする同姓どうしでは結婚できない、というものであり、近親婚を防止するための伝統として、韓国では近年まで守られていた。「異姓養わず」とは、姓の異なる者を養子にしてはならない、というものである。

そこで、そうした伝統を守りつつ、かつ日本名を名乗りたいとの要望に応えるため、戸籍上は伝統的な「姓」を残しつつ、「姓」とは別に、日本同様、その人物がどの家に属するのかを示すファミリー・ネームである「氏」を新たに創った。これが創氏である。そして、「姓名」に代え、「氏名」をもって本名としたのである。

創氏には「設定創氏」と「法定創氏」とがあった。設定創氏とは、一九四〇(昭和十五)年二月十一日から同年八月十日までの六ヶ月間の届出期間内に好きな「氏」を届け出て創氏を行うものをいう。この期間内に届け出なくとも特に罰則はなく、その場合には、「姓」がそのまま「氏」とされた。これが法定創氏である。この法定創氏をもって「創氏改名が強制された」とする主張もあるが、「姓」がそのまま「氏」となったのであるから、洪・朴など韓国式の「姓」がそのまま洪・朴という「氏」となったのである。もっとも、「氏」がファミリー・ネームである以上、たとえば夫洪≠ウんの妻朴≠ウんの「氏」は、夫と同じ洪≠ノなった、ということはあったが、けっして、たとえば金≠ウんが金田≠ノ改めさせられた、というように、日本式に改めることを強制したものではない。ちなみに、右の届出期間の後であっても、手数料を払えば、好きな「氏」を設定することができた。

この創氏とともに、日本式の「氏」にあうように「名」を改める改名も認められたが、改名については完全に任意による届出制であった。したがって、第十章で紹介する結城尚弼(朝鮮名・金尚弼)や梁川七星(朝鮮名・梁七星)のように、日本式の「氏」に朝鮮式の「名」 というケースも多かった。

もっとも、地方の役人や学校の教師が、他の地方、他の学校より一人でも多くの人々を日本式に創氏改名させたい、との競争心に駆られて、なかば強制的なケースもあったが、少なくとも、日本政府や朝鮮総督府が日本式に創氏改名しない者を逮捕したり、あるいは罰則を設けたりなどして、日本式に創氏改名することを強制したものではなかった。

以上のように、日本政府や朝鮮総督府が強制的に日本式の氏名を名乗らせたとする記述は史実に反するものである。

まして、冒頭に紹介した東京書籍のほか、大阪書籍(一九五頁)、帝国書院(二〇九頁欄外)、日本書籍新社(一九九頁)、日本文教出版(一七七頁)、扶桑社(二〇八頁)は、朝鮮人の「姓名」を日本式に改めさせたものと記述している。たとえば帝国書院は「夫婦が別姓の朝鮮の人々にとっては、同姓を名のることにもなり、日本の家族制度が朝鮮にもちこまれることになりました。」と記述しているが、前述のように、夫婦は「同氏」を名乗ることにはなったが、戸籍上は「別姓」のままである。こうした記述は「姓」と「氏」の違いさえ認識できていない杜撰なものであり、教科書執筆者が「創氏改名」そのものをよく理解していないものと判断せざるを得ない。よって修正を要する。

なお、台湾では、創氏改名ではなく「改姓名」が行われた。したがって、台湾の人々は日本式の「姓名」を名乗ることもあったが、台湾における改姓名は許可制であり、申請した上で許可を得なければ日本式の姓名を名乗ることはできなかった。結局、日本名を名乗ることができた台湾人はわずかに二パーセント程度であり、強制などとは程遠いものであった。

戦後になって創氏改名が強制≠セった、などといまや常識のようにいわれている。しかし、台湾ではそのような事実はない。……
私自身、軍隊時代もずっと「蔡焜燦」で通し続けたが、それによって何か不都合・不利益があったということはない。奈良教育隊に入隊した台湾出身の同期約四十名の内、改姓名を名乗っていた者はわずか五名程度だったと記憶している。だが、改姓名を持つ者も持たない者も皆一様に、「日本軍人として立派に戦って、祖国・日本を護るのだ」と至純の闘志に満ち溢れていたことにはなんら変わりはなかった。
(蔡焜燦『台湾人と日本精神』一一八頁)

したがって、創氏改名もひっくるめて「『皇民化』は台湾でも進められました。」(東京書籍 一八九)、「このような政策は、台湾でもすすめられました。」(教育出版 一六七頁欄外)とする記述は、修正ないし削除を要する。



○朝鮮の人々を「強制連行」したとの記述は修正を要する


支那事変とこれに続く大東亜戦争の長期化にともない、朝鮮から内地への労働力の動員が行われた。
動員方法には、「自由募集」、「官斡旋」、「徴用」の三段階があった。

「自由募集」とは、日本の企業が朝鮮で自由に労働者を募集することを認めたものである。それまでは朝鮮人が内地に移住することが制限されていたので、朝鮮で自由に労働者を募集することはできなかったが、労働力不足のためこの制限を撤廃したものである。

しかし、アメリカとの戦争が始まり、労働力不足がいっそう深刻になったため、一九四二(昭和十七)年、「官斡旋」が実施された。これは、朝鮮総督府が村ごとに人数を割り当てて、役所がその人数分、就職先を斡旋するものである。これによる就職はほぼ義務に近いものではあったが、内地における「徴用」とは異なり、労働者が就職先を辞めても罰則は科せられず、友人を頼って朝鮮人経営の会社に転職するケースも多かった。

また、朝鮮総督府の定めた「労働者斡旋ニ関スル綱領」では、労働者が不当な扱いを受けることのないよう、たとえば次のように、賃金や待遇について細かく指示されていた。

使用者は労働者の待遇並び争奪防止に関する協定を結ぶ。
労働者の標準年齢は二十才以上四十五才未満とする。
宿舎はオンドル(暖房装置)付きを無償貸与とする。
就労時間は日出から日没まで(適当な休息時間を含む)。
普通標準賃金は飯場料の二日分に相当する額とする。
毎月二十五日以上稼働した者には一円以上の奨励金を加給する。
雇主は労働者への賃金支払のたびに一割程度を天引きしてこれを預金し、やむをえない場合を除き払い戻しをしない。雇主は労働者の貯金額が十円を増すごとに一円を奨励金として支給する。
飯場は直営や指定人が経営し、飯場料は一人一日当たり三十五銭を標準として四十銭を越えないこと、主食物は一日一人九合(米・粟の混食)を標準とする。
(朝鮮史研究会『朝鮮史研究会論文集』所収、広瀬貞三『「官斡旋」と土建労働者―「道外斡旋」を中心に―』一二〇頁〜一二一頁参照)

その後、戦局の悪化にともない、労働力不足がさらに深刻になったため、一九四四(昭和十九)年九月、朝鮮でも内地と同様の「徴用」が実施された。ただし、朝鮮総督府は拒否した者への罰則の適用をできるだけ控えたため、目標の達成率は七十九パーセントにとどまった。

そうした朝鮮人の動員について、たとえば日本書籍新社(二〇二頁)はこう記述する。

日本国内の労働力不足をおぎなうため、朝鮮や中国の占領地からは、多くの人々が内地に強制的につれていかれました。強制連行された朝鮮人の数は約70万人、中国人の数は4万人とされています。

仮に、罰則を伴う「徴用」をもって「強制連行」と解釈したとしても、徴用が行われたのは、戦局の悪化により関釜連絡船(下関〜釜山)が閉鎖された翌年三月までのわずか六ヶ月間であり、これだけの期間内に七十万もの朝鮮人が徴用された事実はない。七十万という数につじつまを合わせようとすれば、「自由募集」までも「強制連行」に含めなければならないが、求人募集に応募して内地に働きに来たものを「強制連行」とするのはあまりにも無理があろう。

また「徴用」にしても、これに応じることは国民の義務であった。当時日本国民であった朝鮮の人々がこの義務を果たすことを「強制連行」と表現するのは不適切である。

たとえば、いま国民の義務の一つに納税の義務がある。そして税法には罰則が設けられ、納税の義務を果たさない者には罰も科せられるが、だからといって、普通に確定申告を行って税金を納めることを「強制徴収」とはいわない。納税の義務を怠り、税金を滞納した際に強制力をもって徴収することを、通常は「強制徴収」という。

これと同様、違反者に対する罰則が設けられていたからといって、ただちに「徴用=強制連行」ととらえ、教科書に「多くの朝鮮人が強制連行された」と記述するのは、あまりにも短絡的かつ乱暴である。日本書籍新社のほかにも、清水書院(二〇三頁)が「強制的に連行」と記述し、大阪書籍(二〇〇頁)も「強制的に動員」と記述しているが、教科書ならば正しい日本語を使うべきであろう。よって、これらの記述は修正を要する。

なお、徴用された人々の生活も、けっして「その労働条件は過酷で、賃金も低く、きわめてきびしい生活をしいるものでした。」(東京書籍 一九三頁)といったものではなかった。

徴用によって広島の武器工場に勤務したある朝鮮人は、手記にこう記す。

徒歩で二十分ばかりの海岸に新しい木造二階建ての建物があった。それがこれから我々が寝起きする寄宿舎で、朝鮮応徴士たちを迎えるために新しく建てられた第二寄宿舎だという。新しい建物なので少し安心する。……
室内を見回すと、たたみ(畳)%十枚を敷いた広い部屋に、新しく作った絹のような清潔な寝具が段になっている(約十坪の部屋)。……
食卓の前に座っていると、やがて各自の前に食事が配られた。飯とおかずの二つの器だ。飯とおかずは思いのほか十分で、口に合うものだった。……
ともかく食べることと眠ることは安心してもよいだろう。腹が減っていたところにかいおいしい飯を腹一杯たべたので生きかえったようだ。
(鄭忠海『朝鮮人徴用工の手記』二十一頁〜二十三頁)

干潮になると、食堂の後ろの浜辺でなまこや浅利(貝)をたくさんとることができた。人手が足らなくて取らないのか、なまこや貝などがそこらじゅうに散らばっている。日課後にそんなものを採るのも面白かったが、それを煮たり焼いたりして酒盛りをするのは格別だった。食料品は何もかも不足していたが、ここではいろいろなものを食べることができた。
(同書 三十二頁)

「念仏には心がなく、祭りの飯にだけ心がある」と言うが、工場で働く男たちは武器生産には心がなく、女性たちとの恋だ愛だということばかりに心をうばわれているようで、工場内の風紀は言葉にならないほどだった。どの工場だったか、プレスを操作していた白(ペク)某という者が、作業中女性とおしゃべりをしていて、自分の親指をぱっさり切り落としたことがあった。その白という友人は、恋のために親指を切り落とした最初の犠牲者になった。
(同書 一〇八頁)

これが徴用の実態である。全部が全部このようなものではなかったにせよ、朝鮮から動員された人々は、おおむね厚遇されていたのである。下手をすれば敵にさえなりかねない朝鮮人の協力を得なければならないのだから、当然といえば当然であろう。
となれば、あまりに悲惨さを強調した記述は、史実とはかけ離れたものといわざるを得ない。教育出版(一七三頁)も東京書籍と同様の記述を載せているが、いずれも修正ないし削除を要する。

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