第七章 支那事変


○わが国が正式に決定した「支那事変」との呼称を記述すべきである



いずれの教科書も、一九三七年に始まった中国での戦闘を「日中戦争」と称し、括弧書きでさえ「支那事変」との名称は記述されていない。

しかし、そもそも「戦争」と「事変」とは異なる。宣戦布告にもとづく戦闘行為が「戦争」であり、宣戦布告なくして戦闘状態に陥ったものが「事変」である。これを踏まえて、わが国政府は昭和十二年九月二日、蘆溝橋事件に端を発する、支那(=中国)で起こった宣戦布告にもとづかない戦闘を「支那事変」と呼称する、との閣議決定を行っている。

このように、わが国が「支那事変」との呼称を正式に決定している以上、わが国の教科書としては「支那事変」との呼称を用いるべきであり、「日中戦争」との呼称は括弧書き、ないし脚注として記述すべきである。

なお、支那という呼称が、中国に対する蔑称であるとする意見がある。しかし「支那」とは、万里の長城以南の地域、つまり中国本土を指す呼称として古くから用いられているものであって、何ら差別意識を含んだ呼称ではない。

「支那」という呼称の語源は、中国大陸最初の統一王朝である「」に由来するものであり、英語のChina(チャイナ)と軌を一にするものである。Chinaという単語が中国に対する蔑称ではないのと同様、支那という単語も、蔑称などではないのである。現に、こんにちでも「東シナ海」「インドシナ(印度支那)半島」のように、何の問題もなく用いられている呼称であって、いたずらに外圧を恐れて、正式呼称を抹消すべきではない。


○支那事変を満洲事変の延長ととらえる記述は修正を要する



満州を実質的な支配下に置いた日本は、さらに華北に侵入しました。1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で起こった日中両国軍の武力衝突(盧溝橋事件)により、日中戦争が始まりました。
(東京書籍 一八八頁)

扶桑社を除くすべての教科書が、この記述と同様に、蘆溝橋事件に端を発する支那事変を満洲事変の延長であるかのような文脈で記述しているが、両者はあくまでも別個の事変である。

満洲事変は、一九三一(昭和六)年九月十八日の柳条湖事件に端を発する事変であるが、この事変は、一九三三(昭和八)年五月三十一日、塘沽停戦協定の締結により終結した。その後、小規模な衝突はあったものの、日中両国は関係改善に努め、一九三五(昭和十)年には大使を交換するまでにいたっている。満洲事変は、まぎれもなく終結しているのである。

一方、支那事変は、その後の一九三七(昭和十二)年七月七日、演習を終えた日本軍が北京南郊の蘆溝橋に差し掛かったところで、中国側から発砲を受けたことを発端にはじまった事変である。

その発砲を受けた日本軍は、一九〇一(明治三十四)年、北清事変(義和団事件)終結に際して清国が受諾した「北京議定書」に基づいて、居留民保護のため合法的に駐留していたのであって、扶桑社を除く各教科書が記述するような「満洲から華北にいたる日本軍の中国侵略」との文脈で駐留していたものではない。たとえば、いまの日本にも在日米軍が条約に基づいて合法的に駐留しているが、これと同様の存在である。

このように、満洲事変と支那事変は、あくまでも切り離して考えるべき別個の事変なのである。

この点、たとえば「15年にわたる侵略戦争がはじまる」(日本書籍新社 一九六頁表題)、「いわゆる日中15年戦争となっていった。」(日本文教出版 一七四頁)、「満州事変から15年たってようやく戦争は終わった。」(清水書院 二〇七頁)との記述に見られるように、満洲事変・支那事変・大東亜戦争を総称して「十五年戦争」とよばれることが多いが、この呼称は、要するに満洲事変をもってその後十五年にわたる日本の「中国侵略」の第一歩とみなそうとする政治的な意図で作られた呼称にほかならず、史実を正しく表した呼称ではないのである。

以上から、支那事変を満洲事変の延長ととらえる記述は、修正ないし削除を要する。


○支那事変をわが国の侵略戦争とする記述は修正を要する


蘆溝橋で日本軍の受けた発砲は、中国共産党によるものである。

塘沽停戦協定の締結により満洲事変が一段落したことで、国民党は共産党との内戦に専念することができた。その結果、共産党は敗戦に次ぐ敗戦によって、存亡の危機に陥った。

ところが、満洲事変で満洲を追われた張学良は、日本との和解を目指す国民党よりも、むしろ抗日を主張する共産党に好意的であった。その張学良が、一九三六年、国民党の蒋介石を西安で監禁し、助命とひきかえに、共産党と協力して日本と戦うことを認めさせた(西安事件)。

こうして(第二次)国共合作が成立したが、共産党はけっして「国民党と協力して中国を守ろう」と考えていたわけではなく、その真意は、国民党と日本軍とを戦わせ、双方の戦力を減耗させた上でこれを駆逐し、中国全土を支配することであった。そのきっかけとして、中国共産党が、日本軍と国民党軍の双方に発砲したのである。

中国人民解放軍が発行した『戦士政治課本』(兵士教育用の初級革命教科書)には、こう記述されていたという。

七・七事変(=蘆溝橋事件 引用者註)は劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って党中央の指令を実行したもので、これによってわが党を滅亡させようと第六次反共戦を準備していた蒋介石南京反動政府は、世界有数の精強を誇る日本陸軍と戦わざるを得なくなった。その結果、滅亡したのは中国共産党軍ではなく蒋介石南京反動政府と日本帝国主義であった。
(葛西純一『新資料蘆溝橋事件』五頁)

これを裏付けるかのように、蘆溝橋事件の直後には、延安の中国共産党司令部に北京から「成功した」との電報が打たれている(『産経新聞 夕刊』一九九四(平成六)年九月八日付)。
しかもこのとき、発砲を受けた日本軍はただちに応戦したわけではなく、中国軍側に軍使を送り、調査と謝罪を要求する交渉を行おうとしていた。にもかかわらず、再三にわたり発砲があったため、翌八日午前五時三十分、最初の発砲から約七時間後にようやく応戦したのである。

この蘆溝橋事件を発端としてはじまった戦闘は、七月十一日、日本側の蘆溝橋撤兵、中国側の謝罪・責任者処分・抗日団体取締り、などを約した停戦協定が調印されたことで、一旦事態の収拾を見ている。わが国と国民党は、あくまでも戦線を拡大することのないよう努めていたのである。

にもかかわらず、その後ふたたび戦闘状態に入った。その後も幾度となく停戦努力が行われたが、日本と国民党との間に和解が成立しそうになると、共産党は蒋介石の態度を弱腰と非難し、和解を決裂させた。そうして戦闘が泥沼化していったのである。

この共産党の行動は、コミンテルンの指示によるものであった。コミンテルンは、共産党にこう指令していたのである。

? あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かなければならぬ。
? 右の目的を貫徹するため、あらゆる手段を利用すべく、局地解決(例えば北支を分離せしめることに依って戦争を回避するの類。)日本への譲歩に依って、支那の解放運動を裏切ろうとする要人を抹殺してもよい。
? 下層民衆階級に工作し、これをして行動を起こさしめ、国民政府をして戦争開始のやむなきに立ち至らしめなければならぬ。
? 党は対日ボイコットを全支那的に拡大しなければならぬ。日本を援助せんとする第三国に対しては、ボイコットを以て威嚇する必要がある。
? 紅軍(=共産党軍 引用者註)は国民政府軍と協力する一方、パルチザン的行動にでなければならぬ。
? 党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵士並びに大衆を獲得し、国民党を凌駕する党勢に達しなければならぬ。
(興亜院政務部『コミンテルン並に蘇聯邦の対支政策に関する基本資料』九十頁〜九十一頁 原文は歴史的仮名遣い)

要するに、わが国は、中国共産党およびその背後にあるコミンテルンの陰謀に乗せられて、国民党と戦わされていたのである。そして後世の歴史は、みごと中国共産党の目論見どおりの結果となった。

一九六四(昭和三十九)年、時の佐々木更三社会党委員長が日本の中国侵略≠謝罪したのに対し、毛沢東はこう答えたという。

「何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。みなさんの皇軍なしには、われわれが権力を奪取することは不可能だったのです」
(東京大学近代中国史研究会『毛沢東思想万歳(下)』一八七頁)

毛沢東の言葉どおり、中国からいわゆる中国侵略≠非難されても、わが国が反省し謝罪する必要など全くなく、「日本が戦わなければ、今頃この世に中国共産党≠ネど存在しなかったのではないのか」とでも反論しておけばよいのである。

以上のように、支那事変は、中国共産党の発砲に端を発し、中国共産党に停戦努力を妨げられたのであって、わが国の侵略戦争であるとの認識は誤りである。

にもかかわらず、扶桑社を除くすべての教科書がこうした史実を一切無視し、支那事変をわが国の侵略戦争と捉えた記述をしている。そうした歴史を改竄した記述は、修正を要する。


○いわゆる南京事件ないし南京大虐殺の記述は修正ないし削除を要する


支那事変の際、南京を占領した日本軍が起こしたとされる、いわゆる南京事件(南京大虐殺)について、扶桑社を除くすべての教科書が、「日本軍は混乱のなかで、多数の捕虜や住民を殺害して、国際的に非難を受けました(南京事件)。」(教育出版 一六五頁)、「南京では、兵士だけでなく、女性や子どもをふくむ多くの中国人を殺害し、諸外国から「日本の蛮行」と非難されました(南京大虐殺)。」(帝国書院 二〇四頁)、「女性や子どもをふくむ中国人を大量に殺害しました(南京事件)。」(東京書籍 一八八頁)のように、これを確定的事実として掲載している。

しかし、扶桑社が指摘するように「この事件の犠牲者数などの実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。」(扶桑社 一九九頁欄外)というのが実情である。

たとえば、「南京大虐殺の証拠写真」とされた写真が捏造、あるいは虐殺とは無関係であることが、次々に検証されている。

一九七二(昭和四十七)年に出版された本多勝一『中国の日本軍』中の掲載写真も、国民党のプロパガンダ写真に、改竄された説明を付したものをふくんでいた。
これを皮切りにして、日本中に、否、世界中に「南京大虐殺」が広まり、いまやしっかりと定着しつつある。しかし、南京大虐殺の証拠と称される写真、最近入館無料となって入館者で混雑するという南京大虐殺記念館の展示写真、日本で南京大虐殺写真と称して展示される写真、その他多くの本に掲載されている写真のほとんどは、本書の検証によれば南京大虐殺の証拠写真としては決して通用するものではなかった。
(東中野修道・小林進・福永慎次郎『南京事件「証拠写真」を検証する』二三八頁)

そもそも、いわゆる南京大虐殺が現実に起こったのであれば、ある程度の犠牲者数は確定できよう。たとえば、同時期に現実に行われたナチスによるユダヤ人虐殺については、大阪書籍、日本書籍新社、日本文教出版のいずれもが犠牲者数を約六百万と確定的に記述している(日本文教出版は四百万人説を併記)。

これに対し、いわゆる南京大虐殺の犠牲者数については、日本書籍新社(一九八頁)が「20万人」と確定的な数字を掲げるほかは、「このときの死者の数は、多数にのぼると推定されている。」(清水書院 一九六頁)、「大ぜいの中国民衆を殺し」(日本文教出版 一七六頁)のように、いずれもあいまいにしか記述していない。「被害者数については、さまざまな調査や研究が行われていて確定されていません。」(大阪書籍 一九五頁)というのが実態なのである。この一事をもってしても、いわゆる南京事件が、史実としてはきわめて不確定的であることが明らかであろう。

しかも、当時、南京市民の保護に当たった南京安全区国際委員会(米・英・独・デンマーク人、計十五名により構成される。以下、国際委員会)による一九三七年十二月十七日付公文書によれば、陥落当時の南京の人口は約二十万人とされている。もし日本書籍新社のいう二十万人の大虐殺があったのであれば、南京の人口はゼロになるべきところ、同じく国際委員会の一九三八年二月十日付公文書では、二十五万人と記録されている。南京陥落後、南京の人口は、虐殺により減少するどころか、むしろ増加しているのである。

また、大虐殺に対し、わが国が国際的非難を浴びた、とする記述も不適切である。国際委員会は、日本軍による非行として四二五件を挙げて抗議したが、仮にすべて事実であったとしても、四二五件中、殺人はわずか四十九件であり、二十万人にも及ぶ大虐殺に対する抗議などは存在しない。

しかも、その四二五件の非行というのも、厳密な調査を行った上で認定されたものではない。当時外交官として中華民国に駐在した福田篤泰氏はこう回想する。

当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務所へ出かけていたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んで来る。「いま、上海路何号で一〇歳ぐらいの少女が五人の日本兵に強姦されている」あるいは「八〇歳ぐらいの老婆が強姦された」等々、その訴えを、フィッチ神父が、私の目の前で、どんどんタイプしているのだ。
「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずに、それを記録するのか」と、私は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。
また、「下関(シャーカン)にある米国所有の木材を、日本軍が盗み出しているという通報があった」と、早朝に米国大使館から抗議が入り、ただちに雪の降るなかを本郷(忠夫)参謀と米国大使館員を連れて行くと、その形跡はない。とにかく、こんな訴えが連日、山のように来た。
(毎日新聞社『一億人の昭和史 日本の戦史3 日中戦争1』二六一頁)

そのようなものをかき集めて、ようやく四十九件の殺人である。
また、外国のメディアにおいても、大虐殺を非難する記事はほとんどない。

当時の南京には多くの欧米人がいる。国民政府の首都に住んでいるくらいだから、みな反日的な立場の人である。また、シナ大陸にはロイター、AP、UPIといった大通信社や、新聞社の特派員たちが多数駐在している。
ところが実際には、当時の国際社会で「南京の暴虐」ということを正式のルートで非難する声は上がっていない。……
私はかつて、アメリカ『タイム』誌の戦前のバックナンバーを全部調べたことがあるが、そこには一つとして、日本軍が南京で万単位の虐殺をしたというような話は書かれていない。……それどころか、南京での日本軍の占領政策をめているぐらいである。
何しろ、被害者であるはずの中華民国政府の代表さえ、国際連盟の議場で「南京虐殺」のことを取り上げなかった。日本軍による南京空爆の際、民家に落ちた爆弾があると言って国際連盟に訴えた中国政府が、南京大虐殺なるものについて抗議していないのはなぜか。また、中共軍にしても、負けた南京の中国軍を非難したことはあっても、日本軍を非難したことはない。さらに米英仏などの国から、公式に日本政府に抗議が寄せられたという事実もない。
(渡部昇一『渡部昇一の日本史』二八一頁〜二八二頁)

以上からすれば、いわゆる南京大虐殺は歴史的事実としては存在しなかった、と判断するのが妥当であろう。
となれば、南京大虐殺について「しかし、このことは、日本国民には知らされていませんでした。」(帝国書院 二〇四頁)とする記述もまた不適切である。事件そのものが存在しないのであれば、国民が知らないのは当然である。

教科用図書検定基準には、「未確定な時事的事象について断定的に記述しているところはないこと」とあるが、各教科書、なかでも日本書籍新社などは「20万人」との数字まで掲げて、まさに「未確定な時事的事象について断定的に記述」している。これらの記述は、この条項に違反するものである。
したがって、いわゆる南京事件ないし南京大虐殺を確定的事実であるかのように記述しているものは、修正ないし削除を要する。あえて記載するとしても、扶桑社のように、「この事件の犠牲者数などの実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている」旨、付記することを要する。



援蒋行為により日本と米英が事実上戦争状態にあったことに触れるべきである



支那事変のさなか、アメリカやイギリスは、表向きは中立を装いながら、日本と戦闘状態にある中国の蒋介石政権に対し軍事物資などの援助を行っていた。この援蒋行為(蒋介石を援助する行為)について、多くの教科書が、「中国への支援」「中国援助」などの文言で触れているが、こうして米英が蒋介石を援助していたことで、蒋は各地の戦闘で日本に敗れ続けても延々と抵抗を続けることができた。事変の早期終結を願うわが国の意図に反して支那事変が泥沼化していった一因は、この援蒋行為にあるのである。また、米英がこのような行為を行ったことで、一九四一(昭和十六)年十二月八日の大東亜戦争開戦を待つまでもなく、日本と米英とはすでに交戦状態にあったといっても過言ではない。

極東国際軍事裁判(東京裁判)の判事の一人、パール判事は、判決文の中でこう指摘する。

国際法の基本原則によれば、もし一国が武力紛争の一方の当事国にたいする武器、軍需品の積出しを禁止し、他の当事国に積出しを許容するとすれば、その国は必然的に、この紛争に軍事的干渉をすることになるものであり、宣戦の有無にかかわらず、戦争の当事国となるのである。
(東京裁判研究会『パル判決文(上)』五一三頁)

この点、扶桑社は「アメリカは表面上中立を守っていたが、この前後から、中国の蒋介石を公然と支援するようになった。日米戦争にいたる対立の一因は、ここにあった。」(二〇一頁)と指摘しているものの、他の各社は、その重大性に触れない。わが国が米国との戦争に至らざるをえなかった経緯を正確に把握させるためにも、援蒋行為の違法性について記述すべきである。

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