第6章 満洲事変
満洲事変は、関東軍(満洲に駐屯していた日本陸軍部隊)の将校が仕組んだ鉄道爆破事件(柳条湖事件)に端を発する中国・国民党との武力衝突である。そうした発端だけを取り出して見れば、わが国に全面的に非があったように見えるが、事件に至る背景には、わが国が満洲に保有する権益に対する度重なる侵害や、在満洲邦人に対する迫害の頻発があったことを無視してはならない。
日露戦争で勝利を収めたわが国は、ポーツマス条約によって、ロシアが満洲に保有していた南満洲鉄道(満鉄)やこれに付属する炭鉱などの経済権益を譲り受け、清国もこれを承認した。これらを経営するため、多くの日本国民が満洲に移り住んでいた。
その後、一九一二年に清国が滅び、帝政は廃止され、共和制による中華民国が成立した。その初代大総統・袁世凱が権力の座にあった時期は、中国国内は比較的安定していたが、一九一六年、彼が帝政を復活し、みずから中華帝国の皇帝に即位したところ、地方軍閥や、中央政府内部からも反発を受け、反袁運動が沸き起こった。結局彼はこれを断念し、その後まもなく死去したが、一旦乱れ始めた秩序は回復することはなかった。中央政府は分裂し、地方軍閥が相次いで中央政府からの独立を宣言するなど、中国は統一性をもたない戦国動乱の様相を呈していったのである。
そうしたなか、満洲では張作霖が頭角を現し、奉天派軍閥を掌握した。そして一九二二年五月十二日には、東三省(奉天省〔=いまの遼寧省〕・吉林省・黒竜江省 ≒ 満洲)の独立を宣言した。後に満洲国が成立する十年も前に、張もまた満洲の独立を宣言しているのである。そして満洲に権益を保有していたわが国は、満洲の安定を望み、彼を支援していた。
満洲に足場を固めた張は、満洲だけでは満足せず、北京政府の支配をも目指し始めた。満洲が中国本土の内乱に巻き込まれることを懸念するわが国はこれを思いとどまらせようとしたが、中国制覇の野望をたくましくする張は、その希望に反して内乱の渦中に飛び込んでいった。そうした思惑の違いもあって、確固たる勢力を保持するにいたった張はかえって日本を疎んじるようになり、わが国との関係に軋みが生じ始めたのである。いわば、親の庇護を受けて育った子供が、大きくなるにつれて次第に口やかましい親を疎んじるようになってきた、といったところである。
反抗期≠迎えた張は、育ての親ともいうべき日本に危害を加え始めた。満鉄の並行線を建設して満鉄経営の妨害を企んだのをはじめ(並行線の建設は日中間の条約で禁止されていた)、日本企業に対する不当課税、日本が満洲の炭鉱で採掘した石炭の不買運動といった排日運動をさかんに行ったのである。ちなみに、満鉄の並行線の建設には、アメリカの資本が投入されていた。つまり、真珠湾攻撃をさかのぼること十年以上も前に、すでにアメリカ側の不法行為によって、日米の対立は始まっていたのである。
このような張作霖の横暴に対し、日本政府はあまりにも寛容であった。あくまでも張作霖を支援し、彼に満洲を治めさせ、治安の安定をはかり、日本が満洲に保有する権益を保全しようとしていたのである。
その後彼は、一時は北京政府を支配し、一九二六年には大元帥に就任して、みずから中国の元首をもって任じるまでにいたったが、北伐を開始した国民党軍に敗れ、北京を撤収し、満洲へ向かった。この途上、彼の乗った特別列車が爆破され、彼が殺害される事件が起こった。
この張作霖爆殺事件については、これまで関東軍将校の河本大作が実行したものとされてきた。張作霖の横暴に対して日本政府があまりにも寛容であったために、満洲の地にあって危機感を肌で感じていた彼が、張作霖を倒さない限り満洲の平穏はないと考え、これを暗殺した、というものである。
しかし最近になって、これをソ連の特務機関による犯行であるとする見解が浮上してきている。
一九二四年九月十日、張作霖とソ連政府は中国東北鉄道条約を締結し、同鉄道は双方による共同経営となった。こうしてソ連は張作霖と友好関係を結んだが、のちに張作霖は多額の鉄道使用代金を滞納し、さらには実力で鉄道を掌握するなどソ連に敵対的態度を示したことで、友好関係は破綻した。そして一九二六年、ソ連は張の暗殺を図ったが、失敗に終わった。その結果、張はいっそう敵対的行動を強めた。ソ連との外交関係を断絶して、ソ連関係機関に対する挑発行為を加速させ、ライバルであった蒋介石と協力して共産主義者を徹底的に弾圧し、さらには匪賊までも利用してソ連領内への襲撃を行ったのである。そこでソ連は、再度暗殺を試み、今度は成功した。これが張作霖爆殺事件だ、というものである。(『正論』二〇〇六年四月号所収 ドミトリー・プロホロフ「『張作霖爆殺はソ連の謀略』と断言するこれだけの根拠」参照)
真偽のほどは定かではないが、こうした見解が存在する以上、「関東軍が、満州の軍閥・張作霖を爆殺するなど満州への支配を強めようとすると、……」(扶桑社 一九六頁)のように、関東軍の犯行であると断定的に記述すべきではなかろう。また、仮に関東軍将校の河本大作が実行したものであったにせよ、これは、あくまでも河本個人がわずか数名の同志とともに、関東軍にさえ知られることのないよう極秘裏に実行したものと考えられており、関東軍が実行したとする記述はやはり誤りである。よって修正を要する。なお、この扶桑社の記述は、教科書検定の際、文部科学省の教科書調査官の意見にしたがってやむなく書き加えられたものであることを、扶桑社の教科書執筆者の名誉のため付記しておく(『正論』二〇〇六年四月号所収 藤岡信勝「張作霖爆殺事件の不可解性」六十九頁参照)。
亡父張作霖のあとを継いだ張学良もまた、激烈な排日活動を行った。
彼は、それまで独自の軍閥勢力を保持してきた父の方針を変更し、国民党に服属することとした。なお、彼が国民党に服属したのに伴い、満洲に青天白日旗(国民党政府の旗)が翻った。これを易幟という。
不平等条約の撤廃や、諸外国が中国国内に有する権益の回収を目指す国民党は、正当な手段によるのではなく、経済的ボイコットを行い、排外宣伝を行って中国民衆の心に排外意識を植え付けるなど、不当な手段でこれを成し遂げようとしていた。そして北伐のさなか、南京事件(のちのいわゆる南京大虐殺ではない)や済南事件といった日本人居留民への襲撃事件をひき起こし、数多くの日本人を暴行・虐殺し、略奪を行っていた。張学良は、そうした国民党と共闘して、いっそう日本を迫害したのである。
さらに、こうした満洲の混乱に乗じて、中国人を中心とする共産パルチザン(極左暴力革命集団)もさかんに活動した。
共産パルチザンとは、世界中で共産主義革命をひき起こそうと企てるコミンテルン(共産主義インターナショナル)の指令を受けて活動した暴力革命集団である。共産主義とはもともと、暴力によって国家・社会を転覆し、革命を成し遂げようとする思想なので、共産パルチザンはきわめて暴力的であった。コミンテルンが発足した一九一九年以降、彼らはしばしば暴動を起こし、暴行、略奪、放火、破壊、殺人を行っていたが、一九二八年以降、いっそうその活動が活発化した。なかでも一九三〇(昭和五)年に間島省で起こった暴動では、共産パルチザンは日本領事館や停車場、鉄道などに放火し、四十四名もの邦人を殺害した。
このような満洲の危機的状況にもかかわらず、なおも日本政府は、幣原外交と呼ばれる国際協調外交を基調とし、実力による解決をためらって、真剣に対処しようとはしなかった。
そうした態度に業を煮やした関東軍が、ついに一九三一(昭和六)年九月十八日午後十時過ぎ、鉄道を爆破し、これを中国側のしわざであるとして、軍事行動に出たのである。これが柳条湖事件である。
軍事行動に出るや、関東軍は電撃的に軍を進め、翌十九日早朝には奉天全市を制圧した。
この関東軍の行動に対し、時の若槻内閣は不拡大方針を決定したが、国民世論やマスコミは圧倒的に関東軍を支持した。そうした世論に押され、九月二十二日、政府も閣議で出兵を支持した。
そして、わずか十日で奉天、長春、吉林などの張学良軍を制圧し、翌年二月までには全満洲をほぼ制圧した。
関東軍がかくも容易に軍を進めることができた理由の一つに、満洲の人々の支持があった。
張学良の軍閥政権は後世の史家から「私兵を養い、軍費を捻出するため広大な満州の土地を荒らし、民家の膏血の七、八割は軍費に当てられ、商民の三割はついに破産し流落した」と非難されているが、実際、満州の民は、満州事変で張学良の軍閥が関東軍にくちくされたことに快哉を叫んだ。日本に感謝したというのが否定できない事実だ。こうして各地で新国家建設運動が、まさに澎湃として起こったのである。
(黄文雄『日本の植民地の真実』二七八頁)
こうして満洲を制圧した後、中国の内乱やソ連の共産主義の脅威を満洲から完全に排除するため、一九三二年三月、満洲国建国にいたったのである。
満洲事変に至るまでには、以上のような背景があったのである。もし、わが国が平穏に満洲における経済権益を行使することができ、邦人の安全も確保されていたならば、わざわざ柳条湖事件をひき起こし、当時わずか一万にすぎない関東軍が二十五万に及ぶ大軍を相手に、しかも政府や軍の上層部の意向に反してまで戦う必要などなかったであろう。たしかに、政府や軍の上層部の命令もないままに軍事行動を起こした点は許されることではなく、関東軍の「暴走」という評価もやむを得ないであろうが、しかし、正当に獲得した権益や邦人の生命財産を保護するために軍事行動に出ること自体は、国際法にも何ら抵触するものではない。
にもかかわらず、東京書籍(一八六頁)、日本書籍新社(一九六頁)、日本文教出版(一七二頁)などは「日本の中国侵略」との表題を掲げ、その中で満洲事変に触れている。大阪書籍(一九二頁欄外)、清水書院(一九四頁欄外)、帝国書院(二〇二頁欄外)もまた、満洲事変を「侵略」としているが、以上の経緯を見れば、満洲事変は「侵略」などではなく、「自衛」であったというべきであろう。したがって、これらの記述は修正ないし削除を要する。
そもそも、ほとんどの教科書は、当然のように満洲事変を中国への侵略と記述しているが、満洲(いわゆる中国東北部)はもともと中国の領土ではない。
歴史的に、中国の領土は、万里の長城以南とされていた。長城以北は「北狄」と呼ばれる化外の地(文明の及ばない土地)とされ、この地には、中国の王朝とは別に、渤海、遼、金などの王朝が成立していた。中国全土と満洲全土が一つの版図に入った時代、つまり地図上で同じ色に塗られた時代は、元と清ぐらいのものであるが、元はいうまでもなくモンゴルの支配する帝国であり、清は、中国が満洲を支配したのではなく、満洲が中国を支配していたのである。
したがって、たとえば孫文も満洲を中国固有の領土とは考えておらず、一九〇七(明治四十)年一月、日本に亡命中の彼が行った講演の中で、このようにさえ述べている。
革命の目的は『滅満興漢』である。日本がもし支那革命を援助してくれるというのなら、成功のあかつきには、満蒙を謝礼として日本にゆずってもよい。
(原子昭三『「満洲国」再考』二十頁)
その後、一九一二年に中華民国が成立した際、中華民国政府は、辛亥革命のどさくさにまぎれて、清朝の版図にあった領土、つまり中国本土のみならず、満洲、モンゴル、ウイグル、チベットなど、もともと中国とは異なる国々の領土も含めて、すべて中国固有の領土だ、と一方的に主張した。
このとき、満洲がようやく史上初めて中国の支配下に入ったのである。とはいえ、それもほとんど形だけのものであり、たとえば前述のように張作霖は満洲に隠然たる軍閥勢力を保持し、中央政府の統治権はほとんど及ばなかった。しかも一九二二年には独立まで宣言している。
一九二八年十二月、張学良は易幟を行い、国民党に服属することとなったが、それもほとんど形式的なものでしかなかった。リットン報告書(後に詳述)はこう指摘する。
満洲が国民党中国と合体した結果、満洲の行政組織は中央政府の行政組織に似たものとなるよう多少の変更を必要とされ、委員制度が採用され、国民党の支部が設立されたが、実際には、従来の旧制度のもとで旧人物が活動した。中国で絶えず行われたような、国民党支部の地方行政に対する干渉は、満洲においては認められず、「すべての主要文武官は国民党員でなければならない」との規定は単なる形式として取り扱われ、軍事、政務、財政、外交等、すべての問題について、中央政府との関係は、満洲側の自発的な協力を必要とした。
(外務省訳『日支紛争に関する国際連盟調査委員会の報告』五十八頁 原文は文語体)
このように、満洲は、少なくとも満洲事変の時点では、けっして中国固有の領土といえるようなものではなかったのである。
つまり、満洲事変を「日本の中国侵略」とする東京書籍、日本書籍新社、日本文教出版の記述は、「侵略」という点で不適切であるのみならず、「中国」という点でも不正確なのである。よって、修正ないし削除を要する。
日本書籍新社(一九六頁)はまた、「満州国をあやつる手」の挿絵の脚注に「日本は中国東北部を満州とよんでいた。」と記述している。あたかも満洲が古来より中国の一部であり、日本が勝手に「中国東北部」を「満州」と名づけたかのような印象を与える記述であるが、満洲との呼称は、日本が勝手にそう呼んでいたのではない。たとえば英語でもManchuria(マンチュリア)と呼ばれている。
この満洲という呼称の由来は、それまで女真族と称されていた民族が、信仰の対象であった文殊(マンジュ=もんじゅ)菩薩から採って自称したものといわれている。したがって、チベット仏教を信仰するチベットやモンゴルでは、清朝皇帝に対する敬称として「文殊皇帝」という呼称も用いられていた。その民族名が、地域名としても使われるようになったのである。
このように、満洲とは古くから用いられていた呼称である。要するに、日本が勝手に中国東北部を満洲と呼んでいたのではなく、満洲が中国固有の領土であるかのように印象づけるため、中国が勝手に満洲を中国東北部と呼んでいるだけなのである。したがって、日本書籍新社の記述は、修正ないし削除を要する。
ちなみに、すべての教科書が「満州」と記述しており、一般にもこの表記が用いられることが多いが、正しくは「満洲」である。
「満洲」との表記の背景には、五行思想がある。五行思想とは、世の中の森羅万象は木・火・土・金・水の五つの要素から成り立っている、という中国古来の思想である。そしてこの五つの要素は、互いに生かしたり、逆に克服したりする関係にあるとされている。たとえば、水は木を育て(水生木)、木は燃えて火を発する(木生火)。金属の斧や鋸は木を切り倒し(金剋木)、火は金属を溶かす(火剋金)、といった関係である。
中国の歴代王朝もまた例外ではなく、いずれの王朝も、木・火・土・金・水のいずれかの徳を備えているものと考えられていた。たとえば、清朝の前の王朝、明朝は火徳を備えるものとされていた。そこで女真族が、この明朝に取って代わってやる、との意気込みから、みずから水徳を備えているものと位置づけた(水は火を消す=水剋火)。そして、みずからの民族名である「満洲」、王朝名の「清」のいずれも、さんずい(?)のつく漢字を選んだのである。中国には徐州、広州、蘇州など「州」のつく地名が多いが、これらと同列に「満州」という地名が存在するわけではないのである。
国語の表記では「洲」を「州」に置き換えることが認められているが、固有名詞である以上、できるだけ正確な表記を心がけるべきであろう。たとえば、東京駅東口に「八重洲」という地名があるが、これを「八重州」とは表記しないのと同様である。したがって、教科書の記述に正確を期するのであれば、「満州」との表記を改め、「満洲」とすべきである。
満洲国の執政、のちに満洲帝国の皇帝となった、清朝のラストエンペラー・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)は、けっして関東軍によって無理やり引っ張り出され、即位させられたのではない。
溥儀は、中華民国が成立した後も、国を統治する権限を持たない肩書だけの「皇帝」として紫禁城に暮らすことを認められていたが、後にクーデターで紫禁城を追われ、日本大使館へ逃げ込んだ。
さらにその後、歴代皇帝の墳墓が暴かれるという事件が起こった。このときの衝撃を、溥儀は自伝にこう書き残している。
そのとき私が受けた衝撃は、自分が宮城を追い出されたときよりも深刻だった。皇族と遺臣たちはみな憤激した。……私の心には無限の恨みと怒りの炎が燃えあがった。薄暗い霊堂の前へ行くと、顔じゅう涙だらけにした皇族たちの前で、空に向かって誓った。
「この恨みに報いなかったならば、私は愛新覚羅の子孫ではない!」
私はこのとき、溥偉が天津に来て、私とはじめて会ったとき言ったことを思い出した。
「溥偉のいる限り、大清は決して滅亡することはありません!」私も誓った。
「私のいる限り、大清は滅亡せぬ!」
私の復辟・復仇の思想は、このとき新たな絶頂に達した。
(愛新覚羅溥儀『わが半生(上)』二三三頁〜二三四頁)
復辟とは、帝位・王位を退いた元君主がふたたびその位に就くことである。つまり、皇帝の座に再び返り咲くことは、溥儀自身の悲願だったのである。
一方、民衆もまた共和制中国にはウンザリしていた。
一般大衆の意見はというと、当時のシナの多くの地域で人々が共和国に幻滅しきっていたことは間違いない。共和国はよいことを山ほど約束しておきながら、貧苦以外は、ほとんど何ももたらさなかったからだ。……
次の一説は、一九一九年六月二十三日付の『ノース・チャイナ・デイリー・ニュース紙』に掲載されたものだが、共和国の実体を伝える典型的な記事だと見てよいだろう。甘肅省の極西地方の情勢に言及している。
「増税したことと官吏が腐敗したことにより、国民は満洲朝廷の復帰を望むようになっている。満洲朝廷も悪かったけれども、共和国はその十倍も悪いと人々は思っている。満洲王朝を恋しがる声は人里離れた辺鄙なところで聞こえるだけでなく、他の地方でも満洲朝廷を未だに望んでいるのである」
(R・F・ジョンストン『完訳 紫禁城の黄昏(下)』五十七頁〜五十八頁)
そして、溥儀が満洲国の統治者となるため満洲の地に入ったとき、満洲の人々は熱烈にこれを歓迎した。
三月八日午後三時、汽車は長春駅についた。車がとまらないうちに、プラットホームに軍楽の音と人びとの歓呼の声が起こるのが聞こえた。私が張景恵・熙洽・甘粕・上角など一群の人びとに囲まれてホームに降り立つと、いたるところに日本の憲兵隊と各種各様の服装をした隊列がいるのが見えた。隊列のなかには袍子、馬褂もあり、洋服もあり、日本の和服もあって、手に手に小旗を持っていた。私は思わず感激がこみあげてきた。営口の埠頭で望んで得られなかったことが、今日とうとう実現したのだ、と思った。私が列の前を歩いていると、熙洽が突然一隊の日の丸のあいだにまじった黄竜旗(=清朝の国旗 引用者註)を指さして言った。
「これはみな旗人(=清朝直属の家臣 引用者註)です。彼らは陛下を二十年のあいだ待ちに待ったのです」
この言葉を聞いて、私は熱い涙が目にあふれるのを押さえられなかった。私は大いに希望があるのだという気持ちがますます強くなった。
(愛新覚羅溥儀『わが半生(下)』五頁〜六頁)
こうして溥儀は、一九三二(昭和七)年、満洲国の執政となり、二年後の一九三四(昭和九)年には満洲帝国の皇帝となったのである。
要するに、しばしば日本による「でっち上げ」、あるいは日本の「傀儡」(あやつり人形)と酷評される満洲国の建国は、溥儀をはじめとする満洲の人々の悲願でもあったのである。
日本(あるいは関東軍)が満洲国の実権を握っていたことをいずれの教科書も批判的に記述しており、なかでも日本書籍新社(一九六頁)は「翌1932年には、日本があやつる『満州国』を建国させた。」(傍点引用者)と揶揄し、「満州国をあやつる手」と題する挿絵(日本の「手」が皇帝溥儀をあやつり人形のように操っている風刺画)を掲載している。
ならば、満洲国建国とともに、関東軍は満洲から撤退すべきだったというのであろうか。そのようなことをすれば、せっかく誕生した満洲国は、おそらく中国の侵攻を受けて、ふたたび独立を失ったであろう。あるいはソ連の支配下に入っていたかもしれない。共産主義は君主制の打倒を目指していたので、もしそうなれば、溥儀は殺害されるか、あるいは迫害を受けていたであろう。それが溥儀はじめ満洲の人々にとって望ましいことだったであろうか。関東軍がいたからこそ、後述のように、満洲国は安定した治安のもと、飛躍的な発展を遂げることができたのである。
また、清国時代の皇帝専制と、それに続く中華民国の軍閥による戦国動乱しか知らない人々に、満洲国を、同時代に生き残ることのできる近代国家として設立・維持・発展させることができるかどうか、ということも考慮しなければなるまい。
アメリカのジャーナリスト、ジョージ・ブロンソン・レーは、満洲を「傀儡国家」とする見解に対し、こう反論した。
世界は満洲国を呼んで傀儡国家≠ナあるという。満洲国人みずから政治の術に巧みでないがために、建国当初日本人専門家の友好的援助を受けて新国家を組織したのである。それを傀儡というなら、世界には無数の傀儡国家が存在することになる。
(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』五十七頁 原文は歴史的仮名遣い)
要するに、「よその国の政治を掌握することはけしからん」と単純に割り切ることはできないのである。そうした一面的な見方ではなく、多面的に歴史的事象をとらえるべきであろう。
したがって、いずれの教科書も、日本ないし関東軍が満洲国の政治の実権を握っていたことを否定的にのみとらえる偏った記述は修正すべきである。
満洲国は、五族協和、王道楽土建設のスローガンのもと、日本の重工業の進出などにより経済成長をとげ、中国人などの著しい人口の流入もあった。
(扶桑社 一九七頁)
扶桑社が記述しているように、満洲国建国によって、満洲は大いに発展を遂げた。
建国当時は、第五章で紹介したマッコイ少将の言葉を借りれば「盗賊が横行し、産業も振わず、赭土色の禿山の下で、民衆は怠けた生活を送って」いた。
そこで、まず満洲建国に伴い、旧軍閥、旧馬賊などから編制された満洲国軍が創建され、関東軍と協力して馬賊討伐を行った。そして警察制度も整えられて治安は安定し、法制も整えられて、ようやく満洲の地に秩序がもたらされたのである。
一九三七年十二月一日には、日本人が享受していた治外法権を撤廃し、日本人も満洲の法律に則って裁かれることとなった。このことは、「五族協和」が単なる宣伝文句ではないことを意味している。
五族協和とは、日本・朝鮮・満洲・蒙古・漢の各民族が共存共栄しようというものであり、満洲国建設にはこのスローガンが掲げられていた。もしこれが単なる宣伝文句にすぎず、実際には満洲国が日本の半植民地であったならば、既得権益である治外法権をわざわざ撤廃することなど考えられない。しかし、わが国はこれを撤廃した。つまりこのことは、満洲国が、あくまでもれっきとした独立国だったことを示しているのである。
また、台湾や朝鮮と同様、満洲でもダム建設をはじめとする灌漑事業が行われ、農業生産が安定し、のちに穀物を輸出するまでにいたった。「赭土色」の満洲が、緑の大地に生まれ変わったのである。
そしてダムでは発電も行われ、これによって工業が発展し、経済成長を促進させた。
その結果、荒涼とした満洲に次々と近代都市が生まれた。都市には大公園が作られ、郊外には広大な緑地が保全された。
一九三四年末、イギリス産業連盟の使節団が満洲を訪れ、貿易と投資の可能性を調査した結果、こう評価している。
満州国住民は治安対策の向上と秩序ある政府を与えられている。軍による略奪と搾取はなくなった。課税制度は妥当なもので、公正に運営されている。住民は安定通貨をもつことができた。輸送、通信、沿岸航行、河川管理、公衆衛生、診療施設、医療訓練、そしてこれまで不足していた学校施設などの整備計画が立てられ、実施されている。こうしたことから、満州国の工業製品市場としての規模と将来性は容易に想像することができる。
近代国家が建設されつつある。将来に横たわる困難はあるが、これらは克服され、満州国と他の国々の利益のために、経済繁栄が徐々に達成されるものと期待される。
(ヘレン・ミアーズ『新版 アメリカの鏡・日本』二九七頁〜二九八頁)
このように、安定した治安のもと、顕著な発展を遂げる満洲に「王道楽土」の夢を抱き、多くの日本人が移り住んだほか、戦乱のつづく中国からも年間百万もの難民が満洲に押し寄せ、当初約三千万だった満洲の人口は、終戦時には約五千万にまで及んだ。もし各教科書の記述から想起されるように、日本人の支配のもとで他の民族が虐げられていたならば、かくも多くの中国人が満洲に移り住むことなどありえない。中国よりも満洲のほうが住みよいからこそ、満洲に移住してきたのである。
また「実権は日本がにぎり、産業も支配しました。」(帝国書院 二〇三頁)のように、日本の企業進出を批判的に記述する教科書もあるが、満鉄沿線以外には産業らしい産業もなく、人材にも乏しかった満洲ですべて自力でやっていたのでは、産業発展は遅々として進まず、満洲の人々の生活もいっこうに向上しなかったであろう。そうなれば、満洲にはふたたび匪賊が横行したであろうことは想像に難くない。日本企業が進出し、産業発展を牽引したからこそ、産業が著しい発展を遂げ、人々の生活も安定し、治安が保たれたのである。それでも、産業発展の牽引役を果たした日本企業の進出が非難されるべきであろうか。
そのように、満洲国を否定的にばかり描く各教科書の一面的な記述を改め、満洲国の顕著な発展について記述すべきである。
中国は、満洲におけるわが国の軍事行動を侵略であるとして国際連盟に訴えた。これを受けて国際連盟は、リットン調査団を派遣し、満洲事変、満洲国建国について調査し、後に『日支紛争に関する国際連盟調査委員会の報告』、いわゆるリットン報告書を作成した。
これについて、たとえば教育出版(一六三頁)はこう記述する。
中国はこの動きを、日本の侵略であるとして国際連盟にうったえました。連盟は調査団の報告をもとに、1933年、「満州国は認められず、日本軍は占領地から撤退する。」という勧告を可決しました。
あたかもリットン報告書が日本の軍事行動を侵略と認定したかのような印象を受ける記述であるが、しかしリットン報告書は、日本の軍事行動を侵略とは認定しておらず、むしろわが国の立場をかなり理解したものであった。
たとえば、わが国が満洲に有していた権益を尊重すべきである旨を勧告している。
満洲における日本の権益は無視することのできない事実であり、いかなる解決方法も、これを承認し、かつ日本と満洲との歴史的関係を考慮に入れないものは、満足な解決方法ではない。
(外務省訳『日支紛争に関する国際連盟調査委員会の報告』二八七頁〜二八八頁 原文は文語体)
そして、扶桑社(一九七頁)が指摘するように、「満州に住む日本人の安全と権益がおびやかされていた事実は認め」ている。
日本は中国から最も近い隣国であり、かつ最大の顧客であるがゆえに、中国の無法律状態によって、他のいずれの諸外国よりも苦しんだ。中国における居留外国人の三分の二以上は日本人であり、満洲における朝鮮人の数は約八十万におよぶ。そのような状態の中で、中国の不当な法律、裁判および課税に服従させられたならば、これによって苦しめられる国民を最も多く有する国は、日本である。よって、日本はその条約上の権利に代わるべき満足な保護を期待できない限り、中国側の願望(治外法権の撤廃など 引用者註)を満足させることは不可能であると感じた。
(同書 四十三頁 原文は文語体)
さらに、満洲を「日本の生命線」であるとする主張にさえ理解を示しているのである。
満洲はしばしば日本の「生命線」であると称される。満洲は現在日本の領土である朝鮮に国境を接する。中国四億の民衆が統一され、強力になり、かつ日本に敵意を有し、満洲および東部アジアで勢力をふるう日を想像することは、多くの日本人の平静を乱すものである。しかし、日本人が国家的生存の脅威および自衛の必要を語る時、多くの場合、彼らの意中に存するのは、むしろロシアであって、中国ではない。したがって、満洲における日本の利益の中で根本的なものは、同地方の戦略的重要性である。
(同書 七十九頁〜八十頁 原文は文語体)
満洲における日本の行動および方針を決定したものは、経済的考慮よりはむしろ日本自体の安全にたいする懸念である。日本の政治家および軍部が、満洲は「日本の生命線」であることを口にするのは、特にこの関係においてである。世の人々は、右のような懸念に対して同情し、あらゆる事態において日本の国防を確保するため重大責任を負わざるを得ない右の政治家や軍部の行動および動機を了解するよう努めるべきである。
(同書 二八四頁 原文は文語体)
ここまで日本の立場に理解を示しているにもかかわらず、柳条湖事件については、次のように述べ、関東軍の行動を正当なものとは認められないと断じた。
九月十八日午後十時より十時半の間に鉄道路線もしくはその付近において爆発があったことは疑いないが、鉄道に対する損傷は、もしあったとしても、長春からの南行列車の定刻到着を妨げない程度のものであり、それだけでは軍事行動を正当とするものではない。同夜における日本軍の軍事行動は正当な手段と認めることはできない。
(同書 一五一頁 原文は文語体)
つまり、柳条湖事件にいたるまでの経緯を踏まえることなく、鉄道爆破だけを取り上げて、日本の軍事行動が正当なものとは認められない、と断じているのである。
しかしこれに続いて、こうも述べている。
もっとも、これによって調査団は、現地にいた日本将校が自衛のため行動しつつあったとの仮説を排除するものではない。
(同書 一五一頁 原文は文語体)
要するに、「正当な行為とは認められないが、自衛のための行為ではないとも言い切れない」という、何ともハッキリしない結論なのである。
また、満洲国の独立についても、次のような結論を下している。
日本の参謀本部が、このような自治運動(=満洲の独立運動 引用者註)を利用することを思い立ったことは明らかである。その結果、彼らはこの運動の組織者に対し援助および指導を与えた。
各方面から得た証拠により、本委員会は、「満洲国」の創設に寄与した要素は多々あるものの、もっとも有効であり、しかも我々の見るところによればそれなくして新国家は形成されなかったと思われる二つの要素がある。それは、日本軍隊の存在と日本の文武官憲の活動であると確信するものである。右の理由から、現在の政権は、純粋かつ自発的な独立運動によって出現したものと考えることはできない。
(同書 二〇八頁〜二〇九頁 原文は文語体)
要するに、満洲において以前から独立運動が存在したことを認めていながら、「日本が手を貸したから、満洲国の建国は自発的なものではない。」と断じているのである。しかし、溥儀をはじめ満洲の人々が建国を喜んだことは前述のとおりである。
このような不可解な結論について、リットン報告書の原案起草に携わったアン・ジュリノ博士は、国連事務局次長の杉村陽太郎氏を訪ね、こう説明している。
シナ側の神経を刺激しないようにと配慮したので、シナの実相を十分表明できなかった点があり、遺憾である。自分としては、過去数年間のシナ側の抗日的態度に対し、日本軍人がカンシャクを起して一撃を加えたのは無理からぬことで、毫も非難の余地はないと思う。幣原外交に徴するも、シナ側は日本の好意に甘えて不当につけ上がっており、これについては委員会内でも、意見が一致しており、異議をはさむ者はいない。……
委員たちは、シナ問題に関して基礎的知識を持ち合わせていないので、報告書の結論が随所で矛盾しているのは当然であり、結論の全部に確信があるわけでもない。
(渡辺明『満洲事変の国際的背景』五三六頁)
つまり、リットン報告書の結論部分は、調査結果を踏まえての結論というより、中国側を刺激しないよう配慮しつつ作成された妥協の産物だったのである。
このようなリットン報告書が提出される一方、わが国の行動に同情的な見解も多かった。
たとえば、ロンドン・タイムズ紙は明快にこう論述する。
日本の南満洲建設工作について、われわれはもとよりこれを承認する。シナ人は日本人の合法的な事業行為を妨害し、朝鮮農民を苛酷に扱い、シナ人の自ら敷設する鉄道を南満洲鉄道路線に並行させる、などして日支条約の精神に違背した。なおその他の挑発事件に至るまで、日本人の述べ訴えているところは、もっともな多くの理由がある。
(原子昭三『「満洲国」再考』二二五頁)
また、中国のアメリカ大使館で公使を務めていたマクマリーは、その著書にこう記している。
日本をそのような行動に駆り立てた動機をよく理解するならば、その大部分は、中国国民党が仕掛けた結果であり、事実上中国が「自ら求めた」災いだと、我々は解釈しなければならない。
人種意識がよみがえった中国人は、故意に自国の法的義務を軽蔑し、目的実現のためには向こう見ずに暴力に訴え、挑発的なやりかたをした。……
協調政策は親しい友人たちに裏切られた。中国人に軽蔑してはねつけられ、イギリス人と我々アメリカ人に無視された。それは結局、東アジアでの正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至った日本によって、非難と軽蔑の対象となってしまったのである。
(ジョン・アントワープ・マクマリー『いかにして平和は失われたか』一八〇頁〜一八二頁)
しかし結局、国連総会では、満洲国の不承認と日本軍の引き揚げを勧告する案が提起され、賛成四十二、反対一(日本)、棄権一(シャム=いまのタイ)で採択された。
この結果を受けて、日本代表団の首席全権であった松岡洋右は、もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した、と表明し、議場を去った。こうして日本は国際連盟を脱退したのである。
なお、ほとんどの教科書が、わが国が国際連盟を脱退したことで国際社会から孤立したとの趣旨を記述しているが、実際にはそれほど悲愴的なものではなかった。
国際連盟からの脱退は、日本国内に悲嘆と混乱をもたらした。……彼らは欧米列強が連盟の決定にこめている意味を恐れた。……日本は最悪の事態を予測し、連盟脱退と同時に、「非常事態」を宣言する詔勅が発せられた。
しかし、何も起こらなかった。満州事変に対する欧米諸国の責務はフォーミュラとして記録にとどめられただけで、各国はもとの現実政治にもどった。
(ヘレン・ミアーズ『新版 アメリカの鏡・日本』二九六頁〜二九八頁)
たとえば、前述のように、一九三四年末にはイギリスから産業連盟の使節団が来訪し、満洲国を好意的に評価している。そして、国際連盟では承認されなかったものの、南米の国エルサルバドルを皮切りに、ローマ教皇庁、イタリア、ドイツ、スペインなど、多くの国々が次々に満洲国を承認した。さらに中華民国も、事実上満洲国を承認している。
三四年末から三五年にかけて、中華民国政府と列車の相互乗り入れ、郵便、通電、通航問題を解決した。これらを勘案すると、実質的には、中華民国政府から新国家として承認されたとみなすことができる。
(黄文雄『満州国の遺産』二六〇頁)
以上を踏まえ、教科書では、少なくとも次のことは明確に記述すべきである。
リットン報告書では、わが国の立場に理解を示していたこと。にもかかわらず、中国側に配慮した結果、結論としては満洲事変における日本軍の行動を自衛行為とは認めなかったこと。これに基づいて日本軍の撤兵と満洲の国際管理が勧告され、それが可決されてしまったこと。そのような国連の有様に失望して、日本が国連を脱退したこと。国連では満洲国は承認されなかったものの、日本の行動に理解を示す意見も多く、多くの国々が満洲国を承認したこと。