第四章 日露戦争


日露戦争が自衛戦争であった旨を記述すべきである


これまでにも述べたように、わが国は、国防の見地から、朝鮮半島が欧米諸国、とりわけロシアの支配下に入ることを恐れ、朝鮮が清国から独立して近代化を推し進め、自存自衛を図ることを望んでいた。そして日清戦争の結果、日清両国間で朝鮮が独立国であることが確認された。

にもかかわらず、三国干渉(下関条約で割譲を受けた遼東半島を清国に返すようロシア・ドイツ・フランスの三国から勧告を受けたこと)でわが国がロシアに屈したことをきっかけに、朝鮮では、李王(高宗)と閔妃をはじめとする親露派(閔妃は親露派に転向した)が勢力を伸ばし、大院君をはじめとする親日派(大院君は親日派に転向した)と対立した。

その後、李王がロシア公館に庇護を求め、ロシアを後ろ盾とした政権が発足したことで、ロシアの勢力はいよいよ強まった。

後に李王は王宮に帰還し、みずから皇帝を称し、国名を大韓帝国と改めるなど、ようやく独立自存の意思を示しはじめたが、もはやロシアの影響力を排除することはできず、ロシアは、韓国の港を貯炭港として要求し、その租借契約が調印された。

清国においても、ロシアは、一八九八年、三国干渉によりわが国に返還させた遼東半島の南端にある旅順・大連を清国から租借した。さらに一九〇〇年には、義和団事件(北清事変)を口実に、満洲へ大軍を派遣し、事態が収拾した後も撤退せず、事実上満洲を軍事占領した。そして一九〇三年七月、国境を越えて韓国に侵入し、韓国国内に砲台を築くなど、朝鮮半島をも支配しようとする意欲を示したのである。

日本の韓国併合が非難されるが、ならば日本の統治下に入らなければ韓国は独立国でいられたかといえば、おそらく不可能であり、ロシアの統治下に入っていたであろうことは、ロシアのこうした一連の動きからも十分に予想される。そしてロシアが朝鮮半島を手に入れれば、いつでもわが国に向けて出撃できるようになり、常にわが国の安全が脅かされることとなる。そうなれば、「日本」という独立国がこんにち存在していたかどうかさえ分からない。また朝鮮の人々も、次章に述べるような人道的な統治ではなく、当時の白色人種の有色人種に対する支配がそうであったように、過酷な統治を受けていたことも十分予想される。

それはさておき、このように徐々に迫りくるロシアの脅威があったからこそ、わが国は、国力においてはるかに上回るロシアと、国家存亡をかけて、あえて戦わざるを得なかったのである。

にもかかわらず、「朝鮮に勢力をのばそうとしていた日本は、ロシアとの対立を深めました。」(大阪書籍 一五八頁)、「韓国を支配下におこうとしていた日本は、ロシアと外交交渉をすすめて、日本の要求を認めさせようとしました。」(教育出版 一三〇頁)、「日本は朝鮮の支配をめざしていたので、ロシアとの対立がはげしくなった。」(日本書籍新社 一六〇頁)のように、単なる朝鮮半島の争奪戦のようにしか記述しないのでは、そうした切実感はまったく伝わらず、多大なる犠牲を払いながらも辛うじて日本の独立を守った先人の労苦がまったく無視されてしまう。日露戦争が、わが国の国家存亡を賭けた切実なる自衛戦争であったことを明記すべきである。

さらに、東京書籍(一五八頁)にいたっては、「日本は、1902年にイギリスと日英同盟を結んでロシアに対抗し、戦争の危機がせまってきました。」と、あたかもわが国が日英同盟を結んだことが引き金となって日露戦争に至ったかのように記述している。しかし、ロシアの脅威があったからこそ日英同盟を締結したのであって、東京書籍の記述はまったく本末転倒の記述であり、修正ないし削除を要する。


当時まれであった非戦論を誇張した記述は修正ないし削除すべきである


当時、三国干渉の屈辱に「臥薪嘗胆」で耐え忍んできた国民の大多数は、圧倒的に戦争を支持した。そして戦争が始まるや、ロシアの脅威から日本を守るため、各々の立場で精一杯奮闘した。

日露戦争での日本人の奮闘ぶりは、司馬遼太郎著『坂の上の雲』に如実に描かれているが、その中に、たとえば次のようなエピソードが描かれている。

日本海海戦を目前に控えた戦艦敷島の修理に、技術官は当初、約二ヶ月半はかかると予定をたてた。ところがいざ修理をはじめると、職工は休息もとらず、食事も立ち食いで済ませて働いた。かえって乗組の兵員が気をつかって、お茶を運んだり、間食を作ったりし、艦長の寺垣猪三も、
「そのように働いては体がつづかない。まだ三笠もくるし、あと百隻からの艦がくる。からだをうまく使ってくれなければこまる」
と説いてまわったほどであったという。
こうして敷島の修理は、わずか一ヶ月二十日程で終わった。
(司馬遼太郎『坂の上の雲(五)』一八一頁〜一八二頁参照)

日露戦争は、政府と国民が一丸となって死力を尽くした戦いだったのである。当時の国民の様子について記述するのであれば、このような国民の奮闘ぶりこそ記述すべきであろう。

にもかかわらず、扶桑社が『歴史の名場面 日本海海戦』(一六九頁)とのコラムを載せるほかは、いずれの教科書も国民の奮闘にはほとんど触れていない。日本書籍新社(一七二頁)などは、与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』全文の紹介に丸々一ページを割く一方で、国民の奮闘については「多くの国民は戦争に協力したが、増税と物価の上昇によって生活は苦しくなった。」(一六一頁 傍点引用者)の傍点部分だけである。あまりにもバランス感覚を失していよう。

また、大阪書籍(一五八頁)、教育出版(一三〇頁)、東京書籍(一五八頁)、日本書籍新社(一六一頁)は、「社会主義者の幸徳秋水や、キリスト教徒の内村鑑三たちは開戦に反対しましたが、……」(東京書籍)のように、わざわざ「社会主義者」「キリスト教徒」との肩書きまで付けて非戦論者の人物名を掲げている。その背後に「社会主義者=平和主義者」「非キリスト教(とりわけ国家神道=j=軍国主義」とのイメージを子供たちに植え付けようとする政治的意図がうかがわれ、教科書執筆者がいかなる思想の持ち主であるかを垣間見ることができる。

この点、扶桑社は非戦論についての記述はないが、特に問題もなく、日露戦争の様子を十分に記述できている。これと同様、他の教科書も限られたページ数の中でわざわざ非戦論に触れる必要はない。触れるとしても、日本の独立を守るために日露戦争で奮闘した圧倒的大多数の国民の様子とのバランスに配慮すべきである。


わが国がロシアに勝利した歴史的意義を記述すべきである


有色人種の新興国であるわが国が、白色人種の大国であるロシアに勝利したことは、「白色人種=優越人種=治者、有色人種=劣等人種=被治者」が常識であった当時、白色人種の支配下にあった有色人種を大いに勇気づけた。

この点、扶桑社(一六八頁)は『日露戦争と独立への目ざめ』と題するコラムを設け、日露戦争での日本の勝利に自信を得たアジア・アフリカの指導者たちの声を紹介しているので、このコラムを借りて、有色人種の喜びの声を紹介したい。

「日本がロシアに勝った結果、アジア民族が独立に対する大いなる希望をいだくにいたったのです」(孫文=中国革命の父)
「もし日本が、もっとも強大なヨーロッパの一国に対してよく勝利を博したとするならば、どうしてそれをインドがなしえないといえるだろう?」(ネルー=インドの独立運動家でのちの首相)
「立憲制によってこそ日本は偉大になった。その結果かくも強き敵に打ち勝つことができたのだ」(シーラーズイー=イランの詩人)
「日本人こそは、ヨーロッパに身のほどをわきまえさせてやった唯一の東洋人である」(ムスタファー・カミール=エジプト民族運動家の指導者)

アジア・アフリカの人々のみならず、アメリカで被差別的な立場にあった黒人にも勇気を与えた。

「日本がヨーロッパに圧迫されているすべての有色人種を救出してくれる。有色人種は日本をリーダーとして仰ぎ従うべきである」(ウィリアム・デボイス=アフリカ独立の父)
「行け、黄色い小さな男たちよ。天罰を加えるまでその剣を側に置くな。欲望の固まりのロシアを投げ飛ばせ」(黒人の新聞・ニューヨークエイジ紙)
(『産経新聞』平成十六年九月二日付「新 地球日本史」)

扶桑社以外にも、日本書籍新社を除く各教科書は「隣国以外のアジア・北アフリカの人々は、非白人国家がはじめて白人国家を破った事件として大いに注目し、勇気づけられた。」(清水書院 一六七頁)、「日露戦争での日本の勝利は、インドや中国などアジアの諸国に刺激をあたえ、日本にならった近代化や民族独立の動きが高まりました。」(東京書籍 一五九頁)のように、多かれ少なかれ、アジアあるいは北アフリカの人々に自身や勇気、希望を与えた旨を記述しており、評価できる。

しかし一方で、多くの教科書は、これを打ち消すかのように、わざわざ否定的な記述を併記している。

たとえば清水書院(一六七頁)は、「日露戦争は、日本の韓国支配を確保させ、中国・ロシアからも領土をうばった。」と、わざわざ人聞きの悪い「うばった」などという文言を用いて日本を貶めている。「うばう」という文言は、通常、不法な手段によって他者の財物を取り上げることをいうが、当時の国際社会にあっては、戦勝国が敗戦国から賠償金や領土、権益などを獲得することは常識であり、国際法に反することでもなかった。わが国は、ポーツマス条約に基づいてロシアから南樺太などを譲り受けたのであって、うばったのではない。そうした当時の価値観にまったく触れることなく、あえて罪悪感を植えつけることを意図したと思われるこうした記述は不適切である。同社は一方で、一九四五(昭和二十)年八月八日、わが国と不可侵条約を締結していたソ連が一方的にこれを破棄し、突如わが国に攻め込んできて、それこそ千島列島をうばったケースについては、「千島に侵入した。」(二〇七頁)と、比較的穏当な文言を用いて記述している。あまりにもバランス感覚を失してはいないだろうか。どうしても「うばった」という文言を用いたいのならば、わが国が領有権を失ったケースについても、「ソ連により、千島をうばわれた。」と記述するのが公平な態度といえよう。
そもそも、同社はわが国が中国からも領土を「うばった」と記述しているが、これは旅順大連の租借権や南満洲鉄道の付属地を指しているのであろうか。そうであれば、これらはロシアがすでに清国から得ていた権益をロシアから譲り受けたものであって、中国からうばったとするのは史実に反する。よって修正ないし削除を要する。

帝国書院(一七四頁)は、「アジア諸国の期待とは異なり、日本は韓国の植民地化を進め、陸軍・海軍の軍備を増強させるなど、帝国主義国としての動きを活発にさせていきました。」と記述している。「韓国の植民地化を進め」との記述の不当性については次章で指摘するとして、この記述からは、アジア諸国が、日本が軍備を削減することを期待していたかのように読み取ることができる。しかし、たとえばさきに紹介したアジア・アフリカの人々の言葉からも読み取れるように、欧米諸国に支配されていたアジア諸国は、「日本を見習って強い国になろう」と思ったのであって、「日本がこれから弱くなりますように」と願ったわけではない。しかも、当時の国際社会は、弱肉強食の世界である。強い国が生き残り、弱い国は支配される、そうした時代背景もかえりみず、軍事力を増強させたからといってただちに「帝国主義」と結びつけるのは、あまりにも短絡的である。したがって、同社の記述も修正を要する。

教育出版(一三一頁)は、「韓国や中国では、日本の東アジアでの勢力拡大に反対する民族運動が活発になった。」と記述しているが、それならばなぜ、清国から孫文をはじめ数多くの留学生が来日したのであろうか。

東京書籍(一五九頁)は、「いっぽう、国民には、日本が列強の一員となったという大国意識が生まれ、アジア諸国に対する優越感が強まっていきました。」と「大国意識」を持つことを否定的に記述しているが、当時イギリスとならぶ超大国であったロシアに勝ったのだから「日本も大国になったものだ」と感じるのは当然であろう。また現在でも「日本は経済大国だ」という「大国意識」を多くの国民は持っているが、それは非難されるべきことなのであろうか。

そのように、わざわざ日本を貶めようとせず、日本の勝利が当時抑圧されていた有色人種を勇気づけたという世界史的意義を素直に記述してはどうだろうか。したがって、扶桑社を除く各教科書の記述は、修正すべきである。


乃木大将と東郷大将が敵将に示した武士道につき記述することを提案する


日露戦争の英雄といえば、陸軍大将乃木希典と海軍大将東郷平八郎がまず挙げられる。この二人の英雄を祀るため、乃木神社、東郷神社まで建立されている。
乃木大将は、二〇三高地の戦いで知られている。二〇三高地とは、旅順郊外にある標高二〇三メートルの小高い山のことで、この山に登れば旅順港を一望に見下ろすことができた。

当時、旅順港にはロシアの太平洋艦隊の多くが集結していた。しかもこのとき、北欧バルト海に面したリバウ港を出港したロシアのバルチック艦隊が、極東に向けて航行を続けていた。ロシアは、この両艦隊合同で一気にわが国の連合艦隊を叩こうとしていたのである。わが国としては、バルチック艦隊が到着する前に太平洋艦隊を撃滅しておかなければならなかったのだが、太平洋艦隊は用心して、対艦砲で厳重に守られた旅順港から出てこなかったため、決定的な打撃を与えることができなかった。そこで、旅順港を望む二〇三高地を占領し、そこから旅順港の艦隊を砲撃しようとしたのである。

ロシアは二〇三高地に難攻不落の要塞を築き上げていたため、日本軍は想像を絶する激戦を強いられたが、奮闘の末、ついにこれを占領し、太平洋艦隊を壊滅させることに成功した。

この戦いの後、乃木は、敵の司令官ステッセル中将と旅順郊外の水師営で会見した。

通常このような場合、敗軍の将には帯刀が許されなかったが、乃木は、ステッセルの武人としての名誉を守るため、帯刀を認めた。実はこの会見に先立ち、乃木のもとに電報が届いていた。その内容は、明治天皇は、ステッセル将軍が祖国のため尽力した功をたたえ、武士の名誉を保たせることを望んでおられる、というものであった。帯刀を認めたのはこれに沿った措置でもあったのである。

その後両将は互いの健闘をたたえあい、乃木の人柄に感激したステッセルは、愛馬であった白馬を乃木に贈った。乃木はこの白馬のため、立派なレンガ造りの馬小屋を建て、大切に飼養した。その馬小屋は、今も東京赤坂の旧乃木邸に残っている。

後にステッセルは、余力を残したまま降伏したことをロシアの軍法会議で追及され死刑を宣告されたが、これを知った乃木の尽力により、ステッセルは処刑を免れた。

それから約五ヶ月後の五月二十七日、東郷大将を総司令官とするわが国の連合艦隊は、ついにバルチック艦隊と対峙した。

戦力の上では、むしろわが国の劣勢であった。(たとえば、主力となる戦艦の数は、ロシア八隻に対し、日本は半分の四隻であった。)

ところが開戦するや、T字戦法(丁字戦法)として知られる作戦や、それまでの猛烈な訓練、わが国の開発した新型の砲弾の威力などが功を奏して、勝敗の趨勢は、開戦後わずか三十分で明らかになった。結局、バルチック艦隊総数三十八隻のうち、本国のウラジオストクに逃げ延びることができたのはわずか三隻の小軍艦と一隻の輸送艦のみであった。これに対し日本側は、戦艦三笠などはかなりの被害を受けたものの、沈没は水雷艇三隻のみ。海戦史上空前の、わが国の完全勝利だったのである。

翌二十八日、連合艦隊は敵司令長官ロジェストウェンスキー中将の身柄を確保し、三十日には佐世保港に入港した。しかし、ロジェストウェンスキーは頭部に重傷を負っていたため、しばらく移動させることが見合わされ、船内で治療が行われた。その折東郷は、病衣が汚れているのではないかと気遣い、新しい病衣を贈っている。

その後ロジェストウェンスキーは海軍病院に移され、東郷がその見舞いに訪ねた。このとき、東郷は彼にこう語りかけた。

「はるばるロシアの遠いところから回航して来られましたのに、武運は閣下に利あらず、ご奮戦の甲斐なく、非常な重傷を負われました。今日ここでお会い申すことについて心からご同情つかまつります。われら武人はもとより祖国のために生命を賭けますが、私怨などあるべきはずがありませぬ。ねがわくは十二分にご療養くだされ、一日もはやくご全癒くださることを祈ります。なにかご希望のことがございましたらご遠慮なく申し出られよ。できるかぎりのご便宜をはかります。」

これに対し、ロジェストウェンスキーは目に涙をにじませ、こう答えたという。
「私は閣下のごとき人に敗れたことで、わずかにみずからを慰めます。」

(司馬遼太郎『坂の上の雲(八)』二七九頁〜二八〇頁参照)

日本人とは、勝利してもることなく、敵として戦った敗軍の将といえどもその名誉を重んじる、かくも堂々たる武士道精神を育んだ民族なのである。敗軍の将に「A級戦犯」のレッテルをって貶めたあげく処刑してしまったのとは大違いである。

このようなエピソードを子供たちに伝え、感動を喚起させて、日本人であることに誇りを持たせるべきであろう。そして、自分もこういう立派な人物になりたい、との憧れを抱かせ、自発的にみずからの人格を高めるよう啓発することこそ、教育というものではなかろうか。

よって、これらのエピソードを教科書に掲載することを提案する。

目次 HOME