第三章 台湾統治


○わが国が台湾の発展に尽力したことを記述すべきである


下関条約締結でわが国が台湾の割譲を受けた際、清国側全権大使の李鴻章から、台湾には絶対に根絶できない四害がある、との警告を受けた。四害とは、原住民の反乱、風土病、アヘン、盗賊である。

たしかに、台湾統治の当初は反乱がしばしば起こり、これを武力で鎮圧することもあったが、治安はしだいに安定していった。その後は原住民との宥和政策に取り組み、民生の向上に努めた。病院を建設し下水道を敷設するなど衛生環境を向上させ、マラリアなどの風土病対策に取り組んだほか、アヘンも徐々に根絶するなど、四害を次第に克服していったのである。

さらに、鉄道や道路網、港湾などのインフラを整備し、ダムを建設して灌漑事業をおこない、森林を開発して林業を発展させ、学校を建てて教育を施すなどして、台湾の人々の生活は次第に向上していった。

その結果、台湾の民生は大いに向上し、一九〇五年には約三一〇万程度だった台湾の人口が、一九四三年には約六六〇万人にまで倍増している。

台湾開発事業の一つに、扶桑社(一七一頁)が紹介している八田與一によるダム建設がある。

台湾南部に嘉南平野という広大な平野がある。しかし、この亜熱帯地域では、雨季には集中豪雨に見舞われ、乾季には水不足に悩まされており、とても耕作などできる状態ではなかった。

この惨状を知った八田が、ダム建設をはじめとする『嘉南平野開発計画書』を作成して台湾総督府に提出した。これには多額の費用を要したが、八田の情熱に押され、これが実施されることとなった。

原生林の広がる未開地でのダム工事は困難を極めた。そうしたある日、トンネル工事で爆発事故が発生し、五十数名が死亡したほか、多くの重傷者を出した。八田は、台湾人の犠牲者の家を一軒一軒回り、心から弔いと慰めの言葉を伝えたという。

この事故で八田は自信を喪失し、事業の断念も覚悟したが、「事故はあんたのせいじゃない。おれたちのために、台湾のために、命がけで働いているのだ」との台湾人の言葉に励まされて、工事を再開した。そしてついに一九三〇年、ダムは完成した。これとあわせて嘉南平野には一万六千キロにも及ぶ水路がくまなく張り巡らされ、嘉南平野は緑の大地に生まれ変わったのである。

今でも、彼の命日である五月八日には、ダムのそばにある彼の墓前で、地元の人々によって感謝祭が行われている。また二〇〇四(平成十六)年末には、日本を訪れた李登輝前台湾総統が、金沢にある八田の生家を訪れている。

ほかにも、一九三一(昭和六年)の第十七回全国中等学校野球選手権大会(いまの夏の高校野球選手権大会)では、台湾の嘉義農林学校が、奮闘の末、準優勝にまで上りつめたというほほえましいエピソードもある。

そうした明るい一面があったからこそ、李登輝をはじめ、きわめて親日的な人物が台湾で数多く現れたのである。

にもかかわらず、扶桑社を除く各教科書の記述は、「日本に統治されることに反対する台湾の人々の運動を弾圧しました。しかし、日本からの独立を求める運動は、その後もつづきました。」(教育出版 一二七頁)、「日本の領土とされた台湾では、独立運動がおこったが、日本は軍隊を派遣してこれを弾圧し、台湾を植民地として支配した。」(日本書籍新社 一五九頁)のように、暗黒面ばかりをやたらと強調している。あまりにもバランス感覚に欠けた偏向的な記述であり、日台関係を正しく理解するという観点からも不適切であって、台湾との友好をもわざわざ悪化させてしまうものとさえいうべきものである。

台湾人の蔡焜燦氏はこう指摘する。

戦後日本では、かつての植民地統治を無条件に批判する言論が幅を利かせていると聞く。が、日本による台湾統治によって、いかに多くの台湾人が恩恵を受けたかという側面を考慮しないことはあまりにもお粗末であり、聞くに耐えない。それは単なる特定イデオロギーに染まったこじつけ≠ナしかなく、少なくとも日本の統治を受けた台湾人には理解し難いことであることも、ここに付記しておく必要があろう。
(蔡焜燦『台湾人と日本精神』六十七頁)

扶桑社を除く各教科書も、暗黒一色の「お粗末」な記述を改め、われわれの先人が台湾の発展のために尽力したという歴史的事実を明確に記述すべきである。特に、日本人と台湾人が協力した八田ダム建設などは、扶桑社以外の教科書でもコラムで子供たちに紹介したいエピソードである。

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