第二章 日清戦争
○日清戦争の主目的が「朝鮮の独立」であったことを明記すべきである
日清戦争の主目的は、朝鮮を清国から独立させることであった。
前述のように、日朝修好条規の締結をきっかけに、朝鮮は国際社会で独立国として承認された。にもかかわらず、その後も清国は事あるごとに朝鮮に干渉し、朝鮮もまた清国の庇護を求めて、一向に独立自存を果たそうとはしなかった。
そうした中、朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争)と呼ばれる農民を中心とした内乱が起こった。この乱を鎮圧するため、朝鮮は清国に出兵を求め、これに応じて清国は朝鮮に出兵した。清国がこれを機に朝鮮への支配を強めようとしていたことはあきらかであったので、わが国は済物浦条約(後に詳述)を根拠に出兵し、日清戦争に至った。
要するに、日清戦争とは、朝鮮に対する支配を強めようとする清国と、朝鮮を独立させようとする日本との戦いだったのである。このことは、両国の宣戦布告文を見比べても一目瞭然である(原文は文語体)。
日本「朝鮮は、わが国が導き誘って列国の一員に加わらせた独立の一国である。にもかかわらず、清国は、ことあるごとに朝鮮を属国であると主張し、陰に陽にその内政に干渉し、内乱が起こるや、属国の危機を救うという口実で朝鮮に出兵した。」
清国「朝鮮は、わが大清国の藩属(属国)として、二百年間毎年朝貢している国である。」
そして、日清戦争後に締結された日清講和条約(下関条約)の第一条でも、「清国は、朝鮮が独立国であることを確認する。したがって、この独立を損ねるような、朝鮮から清国に対する貢献、典礼などは廃止するものとする。」と規定されている。もし朝鮮を支配することがわが国の戦争目的であったならば、条約の内容は、わが国の朝鮮支配を認めさせるものとなっていたはずだが、そのような文言は下関条約には盛り込まれていないのである。
さらに、日清戦争後の一八九七年、朝鮮の李王はみずから「皇帝」を称し、国号を「大韓帝国」と改めた。前述のように、冊封体制にあっては、皇帝は中国の皇帝ただ一人しか認められていなかった。にもかかわらず、朝鮮の「国王」が「皇帝」を称したということは、朝鮮が冊封体制から抜け出し、真の独立国家となったことを示しているのである。こうした朝鮮の動きに対し、わが国は何ら異論をはさむことはなかった。けっして、大日本帝国に朝貢する朝鮮王国として、朝鮮を支配することを求めていたわけではなかったのである。
したがって、「朝鮮に勢力を広げようとした日本は、……」(教育出版 一二七頁)、「日本は、朝鮮での指導権をとるために出兵し、……」(日本文教出版 一三七頁)、「日本などの朝鮮進出に対して、朝鮮の人はどのように感じていたと思うか、かき出してみよう。」(帝国書院 一七一頁欄外)など、わが国が朝鮮を支配する意図で清国と戦ったかのような記述は修正を要する。
そもそも、ほとんどの教科書は当時のわが国が朝鮮の独立を望んでいたことに触れておらず、教育出版、日本文教出版、帝国書院にいたっては、右のようにわが国が朝鮮を支配することを望んでいたかのように記述しながら、下関条約に示されたわが国の要求が「朝鮮の独立」では、つじつまが合わず、教科書を読んだ生徒はこの矛盾に戸惑うのではなかろうか。したがって、右の三社のみならず、その他の教科書においても、当時のわが国が朝鮮の独立を願っていたこと、そして日清戦争が朝鮮の独立を目的としたものであることを明確に記述すべきである。
なお、教育出版(一二七頁)は「朝鮮でも近代化の努力がはじまりましたが、日本と清の干渉によって、十分な成果があがりませんでした。」と記述している。何を根拠とした記述かは分からないが、もし日本が朝鮮の近代化に反対していたならば、特に何もせず、旧態依然の冊封体制下にあった朝鮮をそのまま放っておけばよかったのである。そうすれば、朝鮮はいつまでも近代化することはなかったか、あるいは近代化は大幅に遅れていたであろう。日本が朝鮮の近代化を願っていたからこそ、旧来の体制に固執する清国から朝鮮を独立させるため、日朝修好条規を締結し、その後日清戦争を戦って、朝鮮の独立を清国に認めさせたのである。そう考えれば、日本が朝鮮の近代化の邪魔をしたかのような記述はまったく史実と相反するものといえよう。したがって、修正ないし削除を要する。
ほとんどの教科書は、「朝鮮政府は清に援軍を求めたが、日本もこれを知って軍隊をおくった。」(清水書院 一六六頁)、「朝鮮政府は、……清に援軍を求めました。日本は清に対抗し、すぐに朝鮮へ軍隊をおくりました。」(帝国書院 一七一頁)のように、東学党の乱をきっかけに、わが国が何の法的根拠もなく、ただ単に清が出兵したから日本も対抗して出兵し、一方的に戦争を仕掛けたかのように記述している。しかし、この出兵は、一八八二(明治十五)年に朝鮮との間で締結した条約、済物浦条約に基づくものである。
一八八〇年代はじめの朝鮮では、日本にならって国内改革を進めようとする親日派の王妃・閔妃と、これに反対する王父・大院君とが対立していた。この対立の中で、大院君が日本公使館を焼き討ちし、閔妃が日本から招いた軍事顧問を殺害するという事件が起こった(壬午事変)。その事後処理として締結されたのが済物浦条約である。この条約では、日本公使館警護のための兵を置くことが定められた。わが国は、同条約を根拠に出兵したのである。
したがって、冒頭のような記述は、修正すべきである。
さらに、「朝鮮政府が清に出兵を求めると、戦争の準備を進めていた日本も、清との条約を理由に朝鮮に出兵し、……」(大阪書籍 一五七頁)、「朝鮮が清国に助けを求めると、前から清との戦争の準備をしていた日本はただちに朝鮮へ出兵した。」(日本書籍新社 一五九頁)のように、わざわざ日本を好戦的であるかのように記述する教科書もある。
しかし、わが国は、できることなら戦争は回避したいと考え、日清戦争直前、「日清両国が協力して事態に対処しよう」と清国に提案している。しかし清国がこれを拒んだため、戦争に至ったのである。したがって、わが国が一方的に戦争を望んでいたかのような右の記述は修正ないし削除を要する。
なお、大阪書籍(一五七頁)と扶桑社(一六四頁)は、この出兵が条約に基づくものであることを記述しているものの、いずれも、一八八五(明治一八)年に清国との間で締結した天津条約に基づくものとしている。
しかし、同条約自体は、@日清両国軍隊の朝鮮からの撤退、A軍事教官の派遣停止、B出兵の際にはお互いに事前通告する、との三点を主たる内容とするものであって、一方の出兵に基づいてただちに他方も出兵できることを規定したものではない。そして清国は、この条約にしたがって、出兵に際してわが国に対し事前通告も行っているので、この条約に基づいてわが国が出兵したというのは無理があろう。
また、日清戦争の宣戦詔書には、清国が東学党の乱を口実に朝鮮に出兵したのに対し、「明治十五年の条約に基づいて兵を出し、事変に備えさせ……」とある。これがわが国の公式見解とするなら、朝鮮への出兵は、一八八二(明治十五)年に朝鮮との間で締結された済物浦条約に基づくものであるとするのが妥当であろう。したがって、大阪書籍および扶桑社の記述は修正すべきである。
日清戦争後、明治天皇は『戦勝後国民ニ下シ給ヘル勅語』を下された。
その中で明治天皇は、「勝利におごり、みだりに他国をあなどり、友邦との信頼関係を失うようなことは、私の望むところではない。講和条約締結後はもと通り友好を回復し、隣国としていっそう仲良く付き合うよう心がけよ」と国民に勅せられている。
この勅語に象徴されるように、わが国は、朝鮮をめぐって清国と戦争をしたものの、戦いが終わった後は、清国との和解に努めていたのである。そうしたことこそ、教科書に記述すべきであろう。
にもかかわらず、いずれの教科書もそのことには一切触れていない。それどころか、「日本人のなかには、中国人や朝鮮人に対して優越感や差別意識をもつ人もいました。」(教育出版 一二七頁)、「国民のあいだには、朝鮮人や中国人を見下す考えも広まっていった。」(日本文教出版 一三七頁)など、わざわざ当時の日本人を底意地悪く描く記述を掲載している。あまりにも偏った態度であり、あきらかに日本を貶めることを意図したものといわざるを得ず、日本の教科書の記述としては不適切である。よって削除すべきである。