西郷隆盛らは、……鎖国を続ける朝鮮に対して、武力に訴えてでも日本と国交を結ばせようとしました(征韓論)。
(大阪書籍 一四四頁)
ほかにも教育出版(一二〇頁)、清水書院(一五三頁)、帝国書院(一五七頁・一六二頁)に同様の記述があるが、これは誤りである。
十九世紀、欧米諸国は競ってアジア各地を植民地として支配していった。
そうした中、わが国はみずからの独立を守るため、二六〇年もの泰平をもたらした徳川時代に別れを告げ、明治維新を成し遂げて、近代国家建設の緒に就いたが、それとともに、朝鮮の情勢もまた、わが国にとって重大な関心事であった。もし朝鮮半島が欧米列強の支配下に入ってしまえば、朝鮮半島と一衣帯水にあったわが国の独立も常に脅かされる恐れがあったからである。特に不凍港(冬でも海面が凍結しない港)を求めて南方に侵出しつつあったロシアが朝鮮半島を支配してしまうことを、わが国は最も恐れていた。当時の朝鮮は、清国を中心とする冊封体制下にあった。冊封体制とは、中国周辺の国々の国王が中国の皇帝に朝貢し、これに対して中国の皇帝がそれらの国王の地位を保障するという体制である。朝鮮の国王は清国の皇帝に貢ぎ物を献上し、その見返りとして清国皇帝から「朝鮮国王として朝鮮を治めよ」とのお墨付きをもらっていたのである。要するに、当時の朝鮮は清国の属国だったのである。
ところがその清国は、アヘン戦争(対英)、アロー戦争(対英仏)に相次いで敗れ、イギリスに香港を割譲するなど、自国の防衛すらままならない状態であった。この敗戦をきっかけに、洋務運動(同治の中興)と呼ばれる近代化政策も行われてはいたものの、その一方で、旧態依然の中華思想(中国の文明が最も優れており、それ以外の文明は野蛮だとする思想)に固執していたため、西洋の科学技術を末節的に採り入れるという小手先の改革にとどまり、日本の文明開化のように、それまでの政治機構や社会体制も含めて抜本的な改革を推し進めようとしたものではなかった。
したがってわが国は、朝鮮が清国から独立して、みずから近代化をはかり、国力を増強して、自存自衛を果たすことを願っていたのである。
そこでわが国は、まずは朝鮮との国交を樹立しなければならないと考え、一八六八(明治元)年、政権交代を告げるとともに、これまでどおり友好的な関係を続けよう、との趣旨の文書(皇政維新の書契)を朝鮮に送った(江戸時代には、徳川幕府と朝鮮の李王朝は、対馬藩を仲介役として良好な関係にあった)。
ところが朝鮮は、文書の中で「皇」や「勅」の文字が用いられることを理由に、文書の受け取りを拒絶した。前述のように冊封体制下にあった朝鮮は、これらの文字は中国の「皇帝」だけが用いることを許される文字であり、そのような文字を使った文書を受け取れば、清国の怒りを買うのではないのか、と考えていたのである。こうして「明治政府は、朝鮮との外交では、はじめからつまずくことになった」(扶桑社 一五一頁)のである。
そこでわが国は、これらの文字を使うことを避け、その後も交渉を試みたが、朝鮮は頑としてこれを拒み続けた。そればかりか、一八七三(明治六)年五月には、欧米の制度や風俗を採り入れて近代化を推し進める日本を「恥知らず」「無法の国」と揶揄した文書を、朝鮮の役人が釜山の日本公館前に掲示するという事態が発生した。
そのような挑発的な態度を受けて、にわかに高まりを見せたのが、いわゆる「征韓論」である。
同年六月以降、政府でも「征韓論」が議論され始めた。その急先鋒にあったのは、板垣退助であった。その主張は、次のようなものであった。
朝鮮国の暴慢はもはや極に達している、ただちに韓半島に兵を送るべきである、外交談判などはそれからのことだ
(司馬遼太郎『翔ぶが如く』一四九頁)
これに対し、西郷は派兵に否定的であった。
同年十月十五日、西郷は次の文書を三条太政大臣に提出している。
(前略)軍隊派遣は決してよくありません。(中略)公然と使節を派遣するのが当然のことでしょう。たとえ彼より交際を破り、戦争の構えで拒絶したとしても、その真意がはっきりと現れるところまでは、徹底的に努力を尽くさなければ、悔いが残るはずです。おのずから暴挙が生じるかも知れないなどの疑念を抱いて、あらかじめ戦争の準備をしておいてから使節を派遣するようなことは礼儀に反しますから、あくまでも親交を深めようという趣意を貫徹すべきであり、そのうえで暴挙が生じるようなことがあったときに、初めて彼の間違いをはっきりと世界に訴えて、その責任を追及すべきではありませんか。(後略)
(堺屋太一・奈良本辰也・綱淵謙錠他『西郷隆盛』所収、毛利敏彦「実録『征韓論』論争」一九一頁〜一九二頁 原文は一部文語体)
このように、たとえ朝鮮が戦争の構えに出たとしても、最後の最後まで徹底的に話し合いによる交渉を続けるべきだと主張して、軍隊の派遣に反対しているのである。つまり西郷は、征韓論者どころか、むしろ反征韓論者とさえいえよう。
したがって、西郷が「征韓論」を主張したとする記述は史実に反するものであって、修正を要する。
また、そもそも武力行使を主張する立場にしても、冒頭の大阪書籍の記述にあるように「武力に訴えてでも日本と国交を結ばせようと」したものであって、武力で朝鮮を征服しようとしたものではない。にもかかわらず、征服の征≠フ字を用いて「征韓論」と表現すること自体、主張の内容に対する誤解を招くものである。たとえ一般に用いられているにせよ、こうした不正確かつ不適切な文言を、教科書では用いるべきではなかろう。冒頭の四社のみならず、全教科書がこの文言を用いているが、削除すべきである。
前述のような朝鮮のかたくなな態度を受けて、わが国はそれまでの外交方針を転換し、一八七五(明治八)年、アメリカの黒船来航にならい、軍艦を朝鮮の江華島に送って朝鮮を威圧した。この軍艦に向けて朝鮮が発砲したことで、武力衝突が発生した(江華島事件)。
この事件をきっかけに、翌一八七六(明治九)年、わが国と朝鮮との間に日朝修好条規(江華条約)が締結された。その主な内容は次の五点である。
@朝鮮は自主の国であって、日本と平等の権利を保有する(朝鮮の独立を承認)。
A日朝両国が互いに外交官を派遣する(国交の樹立)。
B釜山・仁川・元山の三港を開港し、通商貿易を行う(朝鮮の開国と通商の開始)。
C日本人が朝鮮で罪を犯した場合、日本の官吏がこれを裁く(治外法権の承認)。
D日本に対して関税免除を認める(関税自主権の否定)。
それまでの朝鮮は、国際社会では独立国とみなされてはいなかった。たとえば、昔の地球儀ではいずれも朝鮮が中国に含まれていたという(渡部昇一『年表で読む 明解!日本近現代史』三十七頁)。しかし朝鮮が初めて自分で国際条約を結んだことで、日本に続き、イギリスやドイツも朝鮮と条約を結んだ。つまり、日朝修好条規の締結によって、わが国が世界にさきがけて朝鮮をれっきとした独立国であると承認し、これをきっかけに、国際社会でも朝鮮が独立国として承認されたのである。
要するに、@〜Aこそ日朝修好条規の眼目であり、歴史上重要な意義を持つものなのである。にもかかわらず、東京書籍と扶桑社を除いてはこの@〜Aに触れることなく、「日本は軍艦を率いた使節を朝鮮に送って圧力をかけ、日朝修好条規を結んで開国させました。この条約は、日本にとって有利な条約でした。」(教育出版 一二一頁)、「朝鮮に圧力を加えて、日本が欧米諸国におしつけられていたのと同じような不平等条約を朝鮮に結ばせた(日朝修好条規)。」(日本書籍新社 一四七頁)のように、C〜Dをとらえて、条規の不当性ばかりを強調している。これらは、木を見て森を見ない記述と言わざるを得ない。よって、こうした偏った記述は修正すべきである。
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