20世紀アジアは日本に救われた!
何が侵略だ、戦犯は米・ソ・中共だ!

(平成2年)

日本をまもる会会長、大東亜青年塾塾長

中田 清康

昨年初頭、昭和の帝神去りまして六十有余年に亘る昭和の幕が下り、国民ひとしく御冥福を祈りつつ、世は平成となり一年有余が過ぎた。

当時、大喪にあたり、いつものことであるが心なき一部の人から宗教色、「憲法違反の声」があり、又外国から「侵略責任者の死」なる言葉も聞えた。この様な言葉を耳にする度にこの種の誤った認識に対して慷慨あたわざるものがあるが、本年もまた十一月に「即位の礼」「大嘗祭」が執り行われることでもあり、亦々かしましき論議台頭と思われるので一文を草し、これら謬見に対する天啓と為さんとするものである。

(イ)神道について―神道は宗教でない―

昨年大喪に際しいつものことながら憲法問題を持ち出して、ここまでは参列しないなど不思議な論議をして居る向きがあったが、どうかと思わないか。公人か私人などの皮相的質問の愚かしさと同じく、その様なことを念頭に置くこと自体が崇敬・敬愛の念なき形式的堕落論議に過ぎないから、その様な人ははじめから参列せぬ方がましであろう。二千数百年の歴史と伝統ある世界に誇るべき象徴天皇の葬儀である。百数十カ国の代表が宗教・国籍を超えて参列し深く哀悼の意を表する場に於て皇室が先祖伝来の儀式を以て先帝を弔うことに、又、日本がその皇室行事を国家の大事として執り行うことに物言いをつける、そのこと自体が心なき仕業と言わねばなるまい。

日本は古来、八百万の神々のましますという国柄であり、唯物主義・無神論の相容れぬ精神風土である。この様な論議をなすものは偏狭な排他的宗教の信者か、或は政治的な為にする、とるに足らぬ難ぐせにすぎない。

さて本論に戻ろう。一体神道は宗教といえるであろうか。私は宗教を超越したものと思っている。

それは日本人の日常生活の心の在り方を示した規範とでもいえようか。日本民族の根底に根差す心、即ち日本精神の基本理念であると思う。大和の国はその名の如く大きく和する寛容平和の国なのである。外来宗教文化を寛らかに受け入れ、これを摂取融合して血肉となした精神土壌こそ神道であった。神道の本家ともいうべき皇室に於ては厚く仏法僧を尊べといわれた聖徳太子をはじめ、歴代天皇、皇族の多くの方々が仏教に帰依され、寺院を建てその興隆をはかられた。これが神道なのである。すべてが共存し、争いを忌み嫌う平和の理念であり寛容と共に明るき清き明浄心を大切にする道なのである。これこそ宗教というより、古来日本人の心に自然に溶け込んでいる基本理念ともいえるものであるまいか。

日本人は四季折々、神社のおまつりに宗教信者として特別なおまいりをするのであろうか、それはごく少数の変人を除いて、どの様な宗教の人々をもつつみ込む楽しい行事であり、地域和合の場である。

日本には他国に見られるような何世代にもわたる宗教的対立などは見られないのである。

キリスト教国での凄惨きわまる異端撲滅の暗黒裁判は五百年余に亘り続けられ、又ユダヤ教とキリスト教の確執、イスラムの抗争等数え上げればきりがない。

日本には神社の横に寺院があり又その近くにキリスト教会が併存して居る。これが神道の姿である。

一般家庭は神棚に自然を祈り、仏壇に故人祖霊をまつることに少しの違和感もない。年の暮キリスト教のクリスマスを祝い、みそかには仏教寺院の鐘を聞いて年越し、新年には神社へ初詣して心新たにこの年の幸せをを祈る。ここにすべてを寛らかに受け入れる神道の特色がある。神道を宗教として敵視する一部宗教こそ天に向かってツバするたぐいであろう。

ついでに述べておくが、日本人を偏狭、排他的島国根性という説をなす者が多いがそうではない。それは神道と全然相反する事なのである。幕末より東洋の一小島国が伝統文化を失うことなく僅かの間に西欧化学文明を取り入れ、列強の仲間へはいることが出来たことは偏狭排他性で果して可能であろうか。

(ロ)侵略について

第二次大戦後、戦勝国の暴虐といえる東京裁判は日本を侵略者として有無をいわせず断罪した。一体、日本が侵略者であろうか。

中共(コミンテルン)は共産革命のため盧溝橋に於ける謀略で日本と国府両軍を戦わせ漁夫の利を得、米国(ルーズヴェルト)は日本を封鎖し挑発を繰り返し国民を欺き参戦に引き込むため真珠湾をおこさせた。ソ連(スターリン)は昭和二〇年、日本の米英との平和交渉仲裁依頼を無視し、日ソ中立条約を破棄、終戦直前参戦し、戦争終結後北方領土に侵入し強奪した。これらこそ歴然たる侵略者、戦犯でなくて何であろうか。進歩的と称する人達による偏見と虚偽に満ちた戦後教育に毒され、歴史の真実を曲げて知らされた我が国民の多くが現在日本の侵略を肯定して居る感さえある。

しかし、インド及び南方諸国の多くの指導者は「インドやベトナム、カンボジア、インドネシアなど白人の侵略にあえいだ旧植民地が独立できたのは、日本が払った大きな犠牲によってである」と述べている。東京裁判のインド代表判事パール博士は、その記述で大東亜戦争無罪論を展開し、「ハルノートの様な通告を受ければ、モナコ、ルクセンブルクの様な小国でも、矛を持って米国に立ち向かったであろう」と断言され、「理性が虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには、正義の女神は、過去の賞罰にその処を変えるのを要求するであろう」と結んでいる。外国人の認識においてすらかくの如きである。

明治以降、日本の幾多の戦いは西欧列強のアジア侵略に抗し得る唯一の独立国としてふまねばならなかったやむを得ぬ道程であり、天の意であった。偉大な明治日本は先祖伝来培われた質実剛健尚武の精神風土の上に富国強兵策をとり臥薪嘗胆僅か半世紀を経ずして米英に対抗する世界三大強国となった。何故であろうか、もし列強の侵略にこと勿れ事大主義に終始し拱手傍観、現在の進歩的平和論者の如き空論を唱えるのみであったなら、アジア、アフリカの有色人種の国々が果して白人侵略の鉄鎖から解放され得たであろうか。

試みに二〇世紀初頭の世界地図を広げてみよう。大英帝国は日の沈む時のない範囲を誇り、全アフリカはエチオピアを除き百%白人種の植民地であり、世界陸地の九割以上が白色人種の支配するところであった。

アジアにおいても支那は阿片戦争以降国内要衝いたるところ租借地租界を強いられる屈辱的半植民地の状態であり、朝鮮はその支那を宗主国と仰ぐ属領的立場にあった。

インド、セイロン、ビルマ、マレー、パキスタン、北ボルネオ、シンガポール、ニューギニア(東半)、ニュージーランド、オーストラリア、その他広大な南太平洋のポリネシア諸島その他多くは英領であり、インドシナ半島、パウモツ諸島は仏領、ミクロネシアは独領、ジャワ、スマトラ、セレベス、ボルネオ(南半)、ニューギニア(西半)は蘭領、フィリピン及びグアム諸島は米領、中央アジア、シベリアは露領であった。当時東洋に於ては日本のみが尊厳にみちた独立国であり、明治の父祖は有色人種の救世主としてアジア、太平洋のこの屈辱の状態を救わんとの熱情に燃えて立ち上がったのである。

ちなみに
孫文が1924年(大正13年)11月28日神戸高等女学校で行った有名な大アジア主義の講演の一節を載せよう。

「アジアは世界最古の文化の発祥地であり、東洋は一切の文化の源泉である。近世以来欧州各国はアジアの各氏族をその圧政下においたが、日本はひとり発奮し、アジア復興の先駆けとなり、アジアのすべての国家と民族から無限の希望を寄せられるところとなった。とりわけ日本がロシアに戦勝したのは、最近数百年でアジア人がヨーロッパ人に勝ったはじめてのケースであり、これに鼓舞されてイラン、トルコ、アフガニスタン、インドなどに次々と独立運動がおこった…」と。

現在、支那・韓国等のアジア近隣諸国は、当時自国のおかれた状況の認識を故意に曲げ、加えて戦後執拗な左翼進歩的反戦平和運動の影響を受けたことによる事実認識を麻痺させられた日本マスコミの誇大侵略加害者意識に便乗し、受けた恩義を忘れ、事あるごとに戦中一部の枝葉末節的小悪を極力肥大化して真実を曲げ、ためにせんとする策動に終始し騒いでいる。即ち靖国神社について、教科書においても又気骨ある大臣の真実憂国の発言等においてすべて然りである。

ここで真正歴史を知る一助に、支那の近代史について参考のためその一端を述べよう。

広大な支那は漢民族を主体とする多民族国家であり、古来易姓革命の思想により王朝定まらず、且国内に於ては常に軍閥、群雄割拠し、それらが勢力拡大のため抗争絶えず、近世に於ては近代的統一を目指す孫文の国民党が政権安定掌握のために幾多の熾烈な諸軍閥との国内戦を勝ち抜かねばならず、且それにもましてこの間隙を縫う紅軍(共産党軍)の勢力範囲拡大のための執拗な動きに対する絶え間なき戦いがあり、それは支那事変中においてさえ増幅され、国府軍の勢力損耗こそ共産革命達成の好機として激化する様相さえ示した。

紅軍発足当初から本土完全制圧までの国内線における犠牲者の数は一説に四千万人とも六千万人ともいわれる程である。それに比べれば支那事変の被害などは僅少であるといえようか。

支那内戦がいかなるものであったかを知る一助に次の一文を掲げる(蒋介石秘録より)



蒋介石は1925年2月黄埔軍官学校の校長であると共に広東軍の参謀長として東征(第一次)右翼軍の指揮を執った。

2月3日黄埔を出発、翌四日には東莞を占領し、さらに戦いながら東進を続けた。13日敵の重要拠点である淡水へ向けて進軍をはじめた。14日早朝迎撃して来た敵と遭遇、激しい戦闘の末撃退した。しかし敵は淡水城にたてこもり、門を固く閉ざし徹底抗戦の構えを見せた。

我軍は堅固な淡水城を死守する敵軍陳烔明軍の副総指揮洪兆鱗は以下の翁輝謄がひきいる堅固な防御陣地を攻めた。15日午前7時、南門下に布陣した砲兵隊の砲撃に援護されて歩兵隊が南門に迫った。すさまじい砲撃により敵の防衛線の一角が崩れた。一人の旗手が勇敢にも突進して城壁にたどりつき、突撃の合図を送った。

この決死の行動に奮起した軍は弾丸雨飛の中を戦友の屍をのりこえのりこえいっせいに城壁に殺到、ハシゴを使って次々に場内におどり込んだ。熾烈を極めた市街戦は終日続いた(1925・2・15)。我が軍は一時優位に立ったものの夕刻には敵の増援部隊が到着し執拗な反撃を加えてきた。死傷者続出し苦戦に陥った。しかし我々はもちこたえた。

後年、蒋介石は次のように述べている。

「この戦闘で私に従って出征し戦死した兵士及び負傷のため廃人となった兵士はその三分の一、我が軍は、前が倒れるか後がこれに続き肉薄登城するごとに鮮血を流したが、少しも恐れることなく、主義のために浩然と生命を投げ打ち、故郷へ帰るが如く喜んで死んでいったのである。」

淡水を制圧した後、なおも東進を続け二月二〇日白茫花を経て平山を攻略、三月七日には潮州、汕頭を占領した。

そのあと林寅の率いる軍と錦湖方面で遭遇、十三日棉湖郊外の河南郷で激しい戦いとなった。敵軍は圧倒的な数にものをいわせ、たちまち包囲された。敵は我々の十倍の兵力を持っていたのである。……



これが国民党軍と地方軍との支那人同士の戦いの一節であり、別に共産軍との戦いも又延々と果てしなく続くのである。

ためにする被害強調よりも日本人が尊い鮮血を流しロシア人の侵略を満蒙から駆逐し日露戦争以後四十年に亘り莫大な血税、資本を投下し、営々と築き上げ残された日本の諸開発事業遺産の偉大な恩恵をこそ多とすべきではないのか。

毛沢東は後年「我々が革命を達成できたのは日本軍のおかげで、国府をつぶせたからだ」とまで言って居ることを附記しておく。

最後に明治・大正の代表的評論・随筆家の憂国の一文を載せ、戦前日本を知る一助に供したい。



◎平和論者に告ぐ   大町桂月

平時にありても、国家を誤るものは、皮相なる平和主義なり。況んや戦時に於てをや。

吾人は必ずしも戦争を好む者に非ず。否平和を好むものなり。然れども戦はずんば平和を得る能はざるを如何せん。

妄りに戦争を非とする一種皮相の平和主義を懐く人士に問はん。幾千万年の後はいざ知らず、今の世、干戈なくして果してよく国を守ることを得るか。進んで国力を海外に増進するを得るか。平和は人類の理想とせざるべからざれども、各国武装する間は、我も武装せざるべからず。それとも、国は人に取られても可なり、外国に辱められても可なり、ぶたれてもたたかれても、国権を伸ばすを得ざるやうなりても、それでも可なりとうものならば、干戈をなげうちて可なり。即ち国といふ観念を失はば、干戈をなげうちても可なり。かかる人に向っては、吾人何をか云はん。

いやしくも国をたもたんとせば平和を得る為に戦はざるべからず干戈なき国は、海外の貿易も盛んならざるなり。否、その国の独立もたもたれざるなり。韓国の如く、事大主義を執って、強国の鼻息を伺はざるを得ざるなり。更に又猶太人(ユダヤジン)の如く、むなしく人ありて国なく、人ありといへども、至る処に屈辱を被らざるを得ざるなり。嗚呼萬世一系の皇室を戴きて、開闢以来、金甌無欠なる日本帝国の民、印度となり、安南となり、もしくは韓国になりもしくは猶太人となりて、なほ甘んずるか。以上

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