大東亜戦争を「聖戦」と呼ぶ理由
―防共は人道をまもる道だった―
(平成13年)

獨協大学名誉教授
中村 粲


大東亜聖戦大碑の撤去を求める運動が起きてゐるさうだ。恐らく、大東亜戦争は「侵略戦争」だから聖戦と呼ぶのは怪しからんと云ふのだろう。そこで問題は大東亜戦争が侵略か自衛かといふ議論に帰着する。自衛の義戦であれば聖戦と呼ぶことに何の憚るところもないわけである。のみならず、凡そいかなる国も自国の戦ひを聖戦と称せざるはなく、あの侵略国家ソ連でさへ第二次大戦に於ける自らの戦ひを聖戦と呼称してゐるに於てをやである。

大東亜戦争は他国の侵略や領有を目的として発動された戦さでは全くない。それは一面に於て、十九世紀末に始まる門戸開放主義を理想とする米国極東政策と日満支の共存共栄を施行するわが大陸政策との矛盾・対立・衝突であり、他面に於てはソ連に使嗾された中国共産主義者の東亜赤化工作とのたたかひ、即ち防共の戦ひであった。共産主義が人間の思想信条の自由など、なべて人間の添付の権利を否認し圧殺する反人道の政治思想であることは、ソ連以外の全世界の承認する所であった。米国でさへ、容共主義者のフランクリン・ルーズベルトが大統領になるまで、ソ連成立後十年間もソ連を国家として承認しなかった事実を考へればよい。ソ連を信用して不可侵条約を結んだ十指に余る諸国が、ドイツ以外は悉くソ連から侵略され、悲惨な運命に陥った歴史を想起すれば、思ひ半ばに過ぎるものがあるのではないか。

共産主義は一九二〇年代、支那国民党の赤化を手始めに急速に増殖し、様々な破壊活動や排外(排英から排日に転化)運動に権威を振るひ、中国への信用を失墜せしめた。満洲事変はその結果である。

満洲事変以後、支那は汪精衛、蒋介石合作の時期に入り、汪は一面抵抗・一面交渉、蒋は安内擁外(先ず共産党を内滅ぼしてから日本との問題を解決する)の政策を唱導した。この期間、我国では広田弘毅外相が不侵略と日華親善を外支目標とし、在華公使館を大使館に昇格させるなどの親善外交を展開し、中国側もこれを歓迎して排日教科書を禁止するなどの措置で応へた。

これを喜ばなかったのが中共だ。彼等は早くも昭和七年四月には「対日宣戦布告」を全国に通電して、中国国民を対日戦争に煽り立て、日本軍と中国国民党軍とを戦はせることで漁夫の利を得る策略を立てた。このように中国共産党は、日支が親善関係に向かってゐる時期に日支の戦争を計画し、呼号してゐたのだ。いづれが戦争仕掛人か、これで明白だらう。

降って湧いたやうな西安事件は中共の策謀を利することになり、蒋介石の掃共戦であと五分の命まで追ひ詰められた中共は甦生し、今度は蘆溝橋事件で日華を衝突させる策にでた事件が上海事変、やがて支那事変と展開する間にも、我国は中国と交渉して停戦和平の工作を続ける。トラウトマン工作がそれだ。だがその努力も、中共を中心とする好戦派の妨害で成功せず、支那事変は解決の目処の立たぬ儘、泥沼化して行った。加へて、東亜の情勢に無知な米国が、重慶に逃げ込んだ蒋介石政権を軍事経済援助することで、日支抗争の米国との交渉に和平への途を求めたが結局不調に終り、真珠湾攻撃によって大東亜戦争へ突入することになる。

その「真珠湾」は長らく日本の騙し打ちとされてきたが、最近発表されたR・スティネット『欺瞞の日』は、日本に真珠湾奇襲≠させることは一年二ヶ月をかけてルーズベルトが画策してきた米国の参戦計画であった事実を明るみに出した。

好戦的な中国共産党によって惹起され膨大された支那事変は、これまた好戦的なルーズベルト政権によって一挙に太平洋全域にまで拡大された訳である。終始、和平を志向したのは日本と中国の汪精衛派であり、終始、戦争と混乱を望み策したのは中国共産党と米国であったといふ構図が明らかではないか。

大東亜戦争は防共戦であり、防共は人道擁護の道でもあった。終戦まで東亜の天地に共産主義の跳梁を許さなかったのは、我国の断固たる反共の意思と精鋭無比の日本軍の存在であったことを私は誇らしく思ふ。まして大東亜戦争によって初めて東南諸国が独立への端緒を得た事実を顧みるときに、大東亜戦争を聖戦と呼ぶことに相応の理由があることを思はざるを得ないのである。

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