「聖戦大碑反対派」はすこし頭を冷やしたら
(平成13年)
元高千穂商科大学教授
名越二荒之助
多様な歴史認識を
そもそも歴史認識は国によって違うし、多様なのだ。また見る時期によっても異なる。富士山でも山梨県から見た富士山と、静岡県から見た富士山では姿が違う。飛行機から見ればまた違う。朝昼晩で違うし、春夏秋冬で異なる。富士山を多様に見ることによって、富士山が判る。
大東亜戦争でも、日本から見たら、自存自衛とアジア解放を目指す聖戦だった。侵略戦争に参加した者はいなかったし、誰も正義の戦争を戦った。だから緒戦においてあれだけの戦火を挙げ戦況不利になれば各地で玉砕し、特攻隊まで繰り出した。イギリスのマウントバリテン東南アジア司令官も、「負けると判っておる戦争を日本軍はなぜ最後まで戦うのか。植民地勢力を打破したいという執念が凝ったものと理解して初めて判った」と、その回顧録に書いている。
しかし私は日本だけが「聖戦」だと言っているのではない。米・英。・蘭にとっても、自らの植民地を攻撃してくるのだから。日本は侵略国であり、日本と戦うのが正義の戦争であった・だからアメリカの如きは特に頑強に日本と戦った。自国の戦争を自国の戦争を聖戦ではない、と否定する者は、どこにもいない。しかし日本にはいる。それらの人々がどうしても日本を「侵略国」にしたいのであったら、米・英・中・蘭の国籍を取ってから言ったらよい。
歓呼して迎えたアジアの諸民族
また日本はアジア諸民族を苦しめた「加害者」という見方がある。しかし日本は米・英と戦ったのであって、アジア諸民族と戦ったのではなかった。それを知っていたから、緒戦においてインドネシアもマレー半島もビルマも、住民たちは歓呼の聲を挙げて出迎えた。現地人はすべてが日本軍に味方したから、わずか6ヶ月でアジア・太平洋地区植民地勢力を一掃してしまった。
たしかに日本兵は現地の風俗習慣をわきまえなかったので、反感をもたれたこともあった。また戦争末期には、勝つために、現地人に無理を強要し、悲惨な状況に追い込んだことはあった。しかし彼らの目の前で、とてもかなわないと思っていた白人勢力を見事に追い払った事実は否定すべくもなかった。有色人種でもやればやれる自信を植え付け、インドネシアではペタ(祖国防衛軍)や義勇軍を養成し、インド国民軍やビルマ義勇軍を結成した。これが戦後の独立戦争につながり、次々と独立を達成した。日本は敗れたが太平洋戦争が触媒作用となって、独立の波はアジアのみならず、中近東からアフリカにまで及んだ。まさに歴史の大転換が起こった。
大東亜戦争の世界評価
二十世紀は戦争の世紀といわれる。たしかに第二次大戦でイギリスは勝った。勝ったが植民地のすべてを失い、大英世界帝国の面影はなくなった。チャーチルはその回想録の中で、第二次大戦を「不毛の戦争」と位置づけた。アメリカも勝ったが、支援した蒋介石・中華民国は敗れ、中国大陸は共産国家になってしまった。それにソ連の大進出を許し、日本人の精神的武装解除を行った。そのため朝鮮戦争、ベトナム戦争では、大東亜戦争以上の血を流さざるを得なかった。
ソ連はスターリンの謀略が成功し、世界を二分する大勢力になった。しかしマルクス・レーニン主義という間違ったイデオロギーに固執したために、世紀末に至って見事に自己崩壊した。それに対して日本は戦いにやぶれた。しかし「万邦ヲシテ各々其処ヲ得シムル」という日本の世界政策は、戦後になって実を結んだ。
大戦中ビルマの主席であったバー・モウ首相は、その著『ビルマの夜明け』の中で、「日本くらいアジアのために尽した国はない。しかし日本ほど誤解されている国もない」と、同情しているが、タイのオピニオン紙『サイヤム・ラリト』の主筆であったククリット・プラモード(後に首相)は「十二月八日」と題して次のように言っている。
「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日は東南アジアの諸国民が、米・英と対等に話ができるようになったのは、一体誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭けて重大決心をされた日である。われわれはこの日を忘れてはならない」
米英の戦争責任を問う裁判 ―成熟した歴史認識の育成を―
「大東亜聖戦大碑」は、このような思いを込めて建てられた。するとこの日を取り壊そうとする運動が起こった。この運動は、日本の果した歴史的役割を、一方的に否定することであり、あまりに単純で一面的ではないか。それは戦勝国が裁いた「極東国際軍事裁判」の路線でもある。
ひとつ頭を柔らかくして、逆に米・英に対する戦争裁判を模擬的にやってみたらどうであろうか。欧米諸国が数百年にわたって、いかにアジア諸民族を搾取し、弾圧したかが判るであろう。先にも書いたように、歴史認識は多様であり、時間によって変貌もする。あと数十年経てば、日本だけを犯罪国家とする見方は、霧状霧散するであろう。その時この碑を建てた人々の志が見直されるに違いない。そもそも日本は自由主義国家であり、言論思想の弾圧は許されない。多様な見方を認めることによって、成熟した歴史観は育つのである。