大東亜聖戦大碑の歴史的意義
(平成13年)

前大東亜聖戦大碑護持会会長、元参議院議員
板垣 正

平成12年8月4日、石川護国神社境内に大東亜聖戦大碑が建立され、盛大な記念式典が挙行されました。
戦後五十五年、激動の二十世紀最後の年に、全国有志の精魂を結集し、見事に「聖戦大碑」の建立を見たことは、誠に意義深く、在天のご英霊もさぞご満足のことと拝察申し上げます。

この聖戦大碑建立のため、名実ともに中心的な役割を果されたのは、草地貞吾委員長および中田清康実行委員長であります。その不屈の信念と、卓越した実行力に対しては、心から敬仰の念を禁じ得ません。

完成式典当日、草地委員長は、九十六歳の御高齢にもかかわらず、まさに音吐朗朗、式辞を述べられ「大東亜戦争は昿古の世界史的大偉業」と断じ、戦後の誤った歴史観の蒙を覚醒し、日本の正気の復活をと、力強く訴えられました。聖戦大碑の歴史的意義は、まさにここに明示された通りであります。次いで中田実行委員長は、参加者に謝意を表し、来年から八月四日には大東亜聖戦祭を永久に続けたいと発表し、大きな拍手を浴びました。

ところで、中田清康氏は「聖戦大碑」建立の発起について、草地貞吾氏との、運命的な出会いが原点となった事実を明らかにしています。

それは、終戦五十年の年、平成七年の、国会謝罪決議や、村山首相の謝罪談話等をめぐる、亡国狂乱に対する憤激と、抗議行動に端を発しています。

中田氏は、日本をまもる会の会長として、英霊に感謝と追悼を捧げる、金沢市中大行進を計画し実施されました。そして、これに参加された草地氏と、肝胆相照らす間柄となり、この亡国状態への反撃は、百千万の口舌よりまず、大碑建立をと「双方が、ソ連抑留から帰国以来、長年心に温めてきた信条の結晶」として、期せずして一致したと言われます。
かくして、建立委員会が発足し、四年後に遂に、大東亜聖戦大碑の建立にいたったのです。

私自身、平成七年、終戦五十周年という年には、格別の思い入れがあります。

奇しくも、聖戦大碑の原点として、この年の亡国狂乱に対する抗議で激発した魂の出会いがあったことを知りました。
私は、シベリア抑留後、日本遺族会勤務を経て、当時、参議院議員として、英霊と遺族に対する生き残りの責務を果たしていました。

終戦五十周年の年は、改めて、護国の英霊に慰霊と感謝の誠を捧げ、国家存立の基礎を確立すべき年、逆に、わが国の歴史を否定し、一方的にわが国を断罪しようとする勢力との激烈な戦いの年となりました。
まさに天王山ともいうべき、決定的な戦いは、遺憾ながら、深刻な禍根を残したままなお決着がついておりません。
その元凶は「村山謝罪談話」です。
それは、終戦五十周年の、平成七年八月十五日、閣議を経て、内外に公表された、当時の村山富市内閣総理大臣の「談話」です。
この「談話」の背景として、次の三つの問題があります。

第一は、社会党の偏向した歴史認識の問題です。当時、社会党は「日清戦争は、日本のアジア侵略を決定づけた」「以来、一九四五年まで半世紀にわたってアジア各地へ侵略と支配が繰り広げられた」とする侵略史観で凝り固まっていました。現在も…。

第二は、自・社・さ三党連合政権による国会謝罪決議の問題です。
その社会党が思ってもいなかった政権を手にし、委員長が総理大臣に指名され、しかも終戦五十周年という大きな節目の年に巡り会ったのです。かねて宿願の「国会謝罪決議」実現へ、異常な執念を燃やしたのは当然です。

第三は、国会決議の挫折と「村山首相談話」の問題です。
国会決議は、私共自民党と、幅広い国民の反対運動の結果、事実上挫折に終わらせました。

そこで、官邸の密室で、ひそかに準備し、八月十五日の朝、抜き打ち的に決めたのが、「村山謝罪談話」です。それは、
「我国は、植民地支配と侵略によって、とりわけアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えた。」
とする、歴史の真実も、日本国の名誉も誇りも、全く無視した、日本罪悪視の謝罪文です。

しかも、村山謝罪談話は、その後、橋本内閣以降、元小泉内閣に至るまで「わが国の歴史認識の基本」として、定着し、わが国を呪縛しているのです。
私は、現職時代、党総務会で、このヤミ談話の撤回を強く要求しましたが、無視されました。戦いは継続中であります。

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