「共闘の歴史」をアジアへ発信すべし
―アパ日本再興財団主催 第8回 真の近現代史観懸賞論文受賞作品―
(平成27年)
針原崇志
アメリカの属国たる現状
昭和27(1952)年4月28日、終戦以来足掛け8年にわたった連合国軍の占領から解放され、わが国は主権を回復した。以来60余年を経たが、今のわが国は独立国の体を成しているといえようか。
わが国内には依然として全国各地に米軍基地が存在する。他国の軍事基地が国内に設けられるなど本来ならば異常な事態である。たとえば人民解放軍基地が沖縄に、ロシア軍基地が札幌に置かれていたらどうか想像すれば判ることである。ところが、米軍基地が首都東京にまで置かれている風景はすっかり日常のものとなり、在日米軍の存在がわが国の防衛を考える上での前提となってしまっている。
そうしてわが国を「守ってもらう」見返りとして、わが国の資産をアメリカに「献上」してきた。事実上売却することができない150兆円にのぼる米国債の購入はもとより、年次改革要望書にしたがってアメリカの国益にかなった諸施策が日本政府の名のもとに次々に実施される現状を見るにつけ、「もはや戦後ではない」どころか「今なお間接統治中」と暗澹たる思いにさせられる。
かかる状況を見るかぎり、独立国などと称するのはおこがましいといわざるを得ない。
しかし今、国際社会におけるアメリカの圧倒的優位は翳りを見せつつある。米国大統領が「世界の警察官」の返上まで明言した現状は、長らくアメリカの武威を頼みにしてきたわが国としては危機的状況といえるかもしれないが、同時に自主独立を取り戻す好機でもある。
今こそ独立自尊の気概を取り戻し、アメリカからの「真の独立」を目指すべきである。
中国の脅威とアジアとの連携
真の独立を目指すとなれば、アメリカの退勢とともに攻勢を強めつつある中国に対しても、アメリカを頼みとすることなく対処する覚悟をしなければならない。逆にその覚悟ができない限り、わが国はアメリカの属国の地位に甘んじ続けなければならないというべきであろう。そもそも、安保体制を維持し続けたとしても、アメリカが必ずしもわが国に肩入れする保障はない以上、いずれにせよわが国として早晩考えなければならない課題である。
しかし、この課題をわが国が単独で抱え込む必要はない。南沙諸島で傍若無人な振る舞いを見せる中国の脅威は東南アジア諸国の課題でもある。そしてシーレーンを含むこの地域における中国の影響力が拡大することは、わが国の存立にかかわる重大な問題でもある。であれば、東南アジアの安全保障はすなわちわが国の安全保障と捉え、合同軍事演習、武器輸出、同盟関係の構築、等々を通じて連携強化を図り、安全保障を盤石なものとすべく一丸となって取り組むべきであろう。
アジアの「親日」の実態
アジア諸国(インド以東の中国、韓国、北朝鮮を除くアジア諸国。以下同じ)は、おおむね親日的といわれる。
事実、さきに外務省がASEAN7ヶ国で行った対日世論調査(1)によれば、日本との関係性を「友好的」「やや友好的」とする回答が94%にも及んでいる。また、わが国を含む11ヶ国の選択肢の中から「最も信頼できる国」を挙げるアンケートでは、わが国を「最も信頼できる国」として挙げた回答が33%と最も多く、2位のアメリカ(16%)を大きく上回った(ちなみに中国5%、韓国2%)。そして、将来ASEANにとって重要なパートナーになると考えられる国(複数選択)についても、日本(60%)を挙げる回答が、中国(43%)、アメリカ(40%)を抑え最も多かった。
かかる調査結果を見るかぎり、確かにアジア諸国は親日的であり、今後連携を強化すべき最良のパートナーといえよう。
しかし、これらのアジア諸国で用いられている歴史教科書を見れば、「アジアは親日的」などと手放しで喜んでいられない「反日的」な歴史教育の実態が浮き彫りとなる。
【シンガポール】
日本軍警察であるケンペイタイについては、恐ろしい話がたくさんある。(中略)
そこで彼らはあまりにもひどい拷問を受けたので、多くの者は自分の受けた苦しみを人に告げることなく死んでいった。日本軍が使ったもっとも一般的な拷問の一つは「水責め」であった。捕われた人は寝かせられ、大量の水が鼻や口に流しこまれた。ときには、この残酷な仕打ちが数週間もくりかえされた。(2)
【マレーシア】
日本の進出のあとになって、やっと現地の住民は、日本が約束を守らないことに気づいた。その後になってようやく、彼等は日本に抵抗し始めた。(中略)
日本は、マレー人の解放獲得への期待を裏切った。日本人はマラヤを、まるで自分達の植民地であるかのように支配した。今度は彼等がイギリス人の座を奪ったのだ。日本の支配はイギリスよりずっとひどかった。(3)
【ミャンマー】
一般の国民は、憲兵隊の思うがままに逮捕され、拷問され、さらには虐殺されたのである。こうしたファシストの弾圧の結果、無法者から学歴があまりない者までが、反乱への怒りの炎をたぎらせた。真の独立を望む声は全土に広がった。民族、男女を問わず、僧侶も一般国民も、ファシスト日本に反乱を起こそうという強い決意を抱くようになった。(4)
【タイ】
タイ人の多くは、日本がタイを占領し、横行することに不満を感じていた。(中略)
プリディ・パノムヨン摂政は、タイ国内に抗日地下部隊を設立した。そしてアメリカやイギリスの自由タイ運動と連絡をとり、さまざまな行動を起こした。例えば、日本の兵力や動向に関する情報を連合国側に提供したり、破壊行為によって日本の通行を妨害したり、また日本兵を拘引したりして連合軍を援助した。(5)
【ベトナム】
そのうえに、日本の数限りない残虐行為があった。ベトバックにおけるベトミン根拠地への攻撃、逮捕者の拷問・殴打・拘禁・銃殺・凌辱・強奪などにより、民衆を恐怖におとしいれた。こうして、またたくうちに、ファシスト日本の偽りの恩情の姿が明らかとなり、親日傀儡一派の「独立」の仮面がすっかりはがれてしまった。わが人民は日増しに敵国日本を憎み、親日傀儡一派を嫌悪するようになった。(6)
【フィリピン】
日本軍の残酷さ――とくに地方での女性に対する邪悪な扱い――は、多くの市民がゲリラになる要因の一つであった。ゲリラ活動の広がりを危険視した日本軍は、フィリピン市民に対して残酷さをいっそう加えるようになった。多くのフィリピン人は、有罪無罪を問わず捉えられ、サンティアゴ砦や、日本軍が接収し刑務所とした他の施設に送られた。家に戻ることができた者にしても、不自由な体となっていた。(7)
【インドネシア】
日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。日本は結局、独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。その行いは、強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。(8)
親日的なアジアの国々でも、その歴史教科書ではわが国はけっして好意的には描かれていない。アジア諸国の中でも特に親日的とされているインドネシアでさえ、わが国の統治を「オランダの行為を超える、非人道的なもの」とまで書かれているのである。
もっとも、戦後わが国がみずからの立場を積極的に主張することはなかった。それどころか、戦勝国側の歴史認識を追認するかのように「過去の過ち」への謝罪を繰り返してきた。その結果、戦勝国側の歴史認識を基調とした歴史教科書になってしまったのも当然というべきであろう。そもそも、わが国自身が反日的な歴史教科書を用いていながら、アジア諸国に親日的な歴史教科書など求むべくもないのである。
たとえわが国が東京裁判史観を克服し、大東亜戦争の意義を正当に評価する歴史認識が国民の共通認識になったとしても、当のアジア諸国にこうしてソッポを向かれていたのでは、俗にいう韓国の「ウリジナル」のごとく、自己満足のための独りよがりの歴史認識として嘲笑あるいは軽蔑の対象になってしまうのではなかろうか。また、親日的と思っていた国が、気がつけば反日になっていたということにもなりかねない。
アジア諸国の歴史はアジア諸国のものである。とはいえ、かかる事態を放置すべきではなかろう。アジア諸国との友好をいっそう深めるのにふさわしい歴史認識のあり方を模索し、アジア諸国と共有すべくわが国として積極的に発信すべきである。
アジアへ発信すべき歴史認識
歴史は、いかなる視点から描かれるかによって全く異なったものとなる。
戦争という極限状態にあって、食糧や資源、労働力を確保する必要に迫られ、ときに乱暴な行為や裏切りととられかねない行為があったことは確かであり、これによって反日感情が高まり、抗日闘争が起こったのも事実である。そうした側面に重点を置けば、アジア各国の歴史教科書のような、日本とアジアとの「反目の歴史」になる。
一方、わが国がアジア独立を目指し奮闘した側面に重点を置いて、日本がアジアを解放したとする「解放の歴史」を描くこともできる。たとえば次のようなアジアの声もその裏付けとなろう。
【ククリット・プラモート =タイ元首相】
日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意された日である。さらに8月15日は、我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。我々は、この二つの日を忘れてはならない。(9)
【サンバス=インドネシア・元復員軍人省長官】
今、インドネシアでも、その他の国も、大東亜戦争で、日本軍の憲兵隊が弾圧したとか、多数の労務者を酷使したとか、そんなことばかり言っているけれども、そういうことは小さい問題だ。いかなる戦場でも、そういうことは起こり得る。何千年前もそうだったし、今後もそうだ。日本がやった基本的なことは、すなわち最も大きな貢献は、われわれに独立心をかき立ててくれたことだ。そして、厳しい訓練をわれわれに課してくれたことだ。これは、オランダの思いもおよばないことだ。日本人はインドネシア人と同じように苦労し、同じように汗を流し、同じように笑いながら、われわれに対して独立とは何か∞どういう苦労をして勝ち取るものか≠教えてくれた。これは、いかに感謝しても感謝しすぎることはない。これは、PETA(独立義勇軍)の訓練を受けた人たちが残らず感じていることなんだ。(10)
【ラジャー・ダト・ノンチック = マレーシア元上院議員】
私たちアジアの多くの国は、日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。日本軍は、永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に、驚異の感動と自信とを与えてくれました。永い間眠っていた自分たちの祖国を自分たちの国にしよう≠ニいうこころを目覚めさせてくれたのです。(11)
こうした評価からも、たしかに大東亜戦争はわが国によるアジア解放戦争としての側面があったということができ、そうした歴史認識をもとに自虐史観を克服し、日本人としての誇りを取り戻すこともきわめて重要なことではある。
ただし、この「解放の歴史」は、他のアジア諸国に発信し共有を求めるのにふさわしい歴史認識とはいえないであろう。
「解放」という言葉からは、わが国ひとりが奮闘し、アジア諸国はその恩恵を受けただけの受益者といった印象を受けるが、アジア諸国は単なる受益者ではない。わが国の敗戦後、旧宗主国が再びアジアに戻り植民地支配を再開した。これを打ち払い独立を勝ち取ったのは、わが国ではなく、アジアの人々である。アジアに発信する歴史認識は、その奮闘を軽視するものであってはならないのである。
とはいえ、上掲の言葉のように、大東亜戦争におけるわが国の奮闘がアジア諸国の独立に大いなる影響を与えたのもまた事実である。
思うに、大東亜戦争も、その後のアジア諸国の独立戦争も、わが国あるいはアジア諸国が個々別々に戦ったものではなく、これら一連の戦いのすべてを包含して、わが国とアジア諸国との共闘と見ることができるのではなかろうか。
事実、大東亜戦争のさなかにも、次のようにわが国とアジアの人々とが協力して戦ったエピソードが残っている。
光機関の工作員が敵陣へ近づくと英印軍が射撃してきたため、インド国民軍の工作員が日本人の工作員の前に立ちはだかり、大声で叫びました。
「日本人を殺すな。われわれインド人の独立のために戦っているんだぞ!」
ヒンズー語の叫びを聞いて射撃は一瞬止みましたが、すぐに射撃が再開されました。すると今度は日本人工作員が立ち上がって両手を広げ、ヒンズー語で叫びました。
「同胞を殺すな。撃つならまず俺を撃て。俺はお前達に話に行くところだ。武器は持っていない」
これを見ると、再びインド国民軍兵が日本兵の前に両手を広げて立ちます。この繰り返しにとうとう相手は根負けして、一個大隊すべてが寝返ったということです。(12)
サルウィン川での戦いの真最中、数人の日本人将校がビルマ人にボートで対岸に渡してくれるようたのんだ。船の通路は数ヵ所の英国側陣営からまる見えで、その射程距離にあったから、船を出すことは死にに行くようなものだった。しかし四人のビルマ人船頭が進み出た。二人の船頭と日本人将校が船底に伏せ、残りの二人の船頭はまっすぐ平然と立って櫓をこいだ。船が川の中ほどに来て、岸からまる見えになった時、二人のこぎ手は弾雨の中に倒れた。残る二人の船頭は一言もしゃべらず、騒がず、すぐに持ち場に着いてこぎ出した。ちょうど、船が対岸に着いた時、この二人も弾にあたって死んだ。これは、例のない英雄的行為であった。日本の新聞、ラジオはひろく、この話を伝え、日本全国と東南アジア諸国で感動を呼び起こしたのであった。(13)
わが国がアジア諸国の独立を助けたばかりではなく、わが国もまたこうしてアジアの人々に助けられながら戦っていたのである。
そして、大東亜戦争の目的が八紘為宇を基調とした東洋平和の実現であり、アジア諸国の独立によってその戦争目的が達成されたとするならば、それはひとりわが国のみの戦果ではなく、日本とアジアとの協同の戦果というべきであろう。わが国が東洋平和の志なかばに力尽き倒れた後、その志を受け継ぎ、見事これを成し遂げたアジアの人々の偉業を大いに讃えるべきである。
「反目の歴史」でも「解放の歴史」でもない、日本とアジアとが力を合わせて戦った側面に重点を置いた「共闘の歴史」こそ、わが国がアジアに向けて発信し、共有を求めるにふさわしい歴史認識といえるのではなかろうか。
「謝罪」から「感謝」へ
「共闘の歴史」をアジアに発信し共有を求めるとしても、あくまでもそれぞれの国の固有の歴史を尊重することが前提であり、当然ながら中韓がわが国に対して行っているような強要的なものであってはならない。抗日闘争という「反目の歴史」もまたその国の歴史を構成する重要な一ページであるならば、それもまた尊重すべきであって、強いてこれを否定しようとすればかえって反発を受け、弱点を内包することとなろう。
しかし、「反目の歴史」と「共闘の歴史」とは相容れないものではない。いずれも大東亜戦争の一側面であって、どの視点から大東亜戦争を評価するかというだけの違いにすぎず、両者を矛盾なく主張することも可能である。であればこそ、「反目の歴史」があったことを真摯に受け止めつつも、それを上回る力強さで「共闘の歴史」があったことを主張しなければならないのである。
そしてこれをアジアの人々と共有するためには、アジアの人々の心に訴え、共感を得られなければならない。それには、わが国の国家存亡の危機に際して共に戦ってくれたことへの感謝の表明とともに「共闘の歴史」を発信するのが有効的と考える。それも、単にメディアを通じて発信するのみならず、たとえば首相がアジア諸国を訪問する際、その英雄墓地を訪ね、共闘のエピソードを具体的に例示しつつ、共に戦ってくれた英雄を讃え、感謝を表明するといった演出も考慮すべきである。前掲のようなアジアの要人によるわが国への感謝の言葉によってその国への親近感が増すように、わが国の要人による感謝の言葉もまた、アジア諸国のわが国への親近感をより一層深め、わが国とアジア諸国との関係をより良好なものとするのに資するものとなろう。
また、わが国内においても、「あの戦争は正しかった」と発言すれば反射的に噛み付いて来る左翼陣営も、アジアへの感謝の言葉を「問題発言」とは攻撃しづらいのではなかろうか。仮に噛み付いて来たとしても、「恩知らず」のレッテルを貼って返り討ちにするまでである。そうして自虐史観の反撃を抑えつつこれを駆逐し、「共闘の歴史」を国内に普及させるのにも資するものと考える。
「反目の歴史」を前提とした謝罪ではなく「共闘の歴史」を前提とした感謝の積み重ねによって「共闘の歴史」をわが国とアジア諸国との共通の歴史認識とし、史上比類なき聖戦・大東亜戦争をともに戦った戦友として互いの健闘を讃え、誇りを分かち合い、精神的紐帯を強め、結束を盤石なものとすべきである。
そうした基礎の上に、軍事面、経済面、文化面、その他多方面にわたる交流をいっそう盛んにすることが今後のわが国とアジア諸国の平和と発展に不可欠であり、またそれこそが、東洋平和の大義に殉じたわが国ならびにアジア諸国の英霊の思いに応えることにもなるものと確信する。
戦後70年、わが国は戦勝国側の発信する歴史認識に押されて防戦一方、というより防戦らしい防戦すらしてこなかったというべきであろう。
そろそろ攻勢に転じ、大東亜戦争の世界史的意義を力強く世界へ発信し、戦勝国側の欺瞞に満ちた歴史認識を打倒しようではないか。 以上
(1) http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press23_000019.html
平成26年3月実施
調査対象国 インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナム、ミャンマー
(2) 越田稜編・著『アジアの教科書に書かれた日本の戦争』p29-30
(3) 同 p63
(4) 同 p126
(5) 同 p146
(6) 同 p167
(7) 同 p225-226
(8) 同 p266
(9) ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』p3
(10)同p90
(11)名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』p286
(12)同p341
(13)バー・モウ『ビルマの夜明け』p169