地球一宇
(平成16年)

後藤 和美

ソウルの街を歩いていると、噛み付かんばかりの勢いで怒鳴りあいの喧嘩をしている人たちを見かける。日本ではほとんどあり得ない光景なので、あまりの剣幕に驚いて立ち止まってしまうのだが、そちらでは日常茶飯事らしく、韓国の人たちは、素知らぬ顔で通り過ぎていく。自分の言い分が正しいと思ったら、徹底的に主張する、少しでも譲れば、自分の非を認めたことになり、負かされてしまう。だからとことんやり合う。若いお嬢さんでも、大の男に喰ってかかる。
事を荒立てないためにとか、相手の立場を慮ってとか、顔を立ててとか、後ろの人間関係に差し障りのないようにとの思いから、自分が悪いわけでもないのに、とりあえず謝る、これは日本社会の常識である。
どちらがいいとか悪いとかという問題ではない。一言でいえば、国民性の違いである。それぞれの民族の歴史や伝統が築いてきた、必然である。その国においては、正義であり善である。

「謙譲」は私達日本人の美徳である。決して逃避でも、小心者の卑怯さでもない。森羅万象、天地神明に誓って清くありながら、私利私欲を捨て己を守ることなく、社会全体を円滑に運営する。その為の理性の働きである。その、有史以来もっとも紳士的で完成された日本の英知を手玉にとって悪用し、日・中・韓を相反するようにしくみ、アジア諸国をかい離させるに導いたアメリカ、慠り昂ぶるアングロサクソンに、激しい憤りを覚える。
一国の長が、その国の平和と安全と繁栄を神に祈る、先祖の霊を祀る、そのことの、何がいけないのだ?精神や伝統や歴史や、聖霊にまで難癖をつける権利が、なぜ他国にあると言うのだ。先祖や、霊をとても大切にする同じアジアの有色人種同志であるにもかかわらず。そして、白人達によってそのように仕向けられて来たことに、もういい加減気付いて、狭小な感情論から解放されるべきである。
他国から誹られるのは、そこに様々な利害関係や思想が障害になっているかぎり、まだ分らないでもない。だが、日本人の中にも「大東亜戦争が、日本の、幼稚でさもしい発想による、テロ行為であった、無謀な歯向かいであった」などと、いまだに言っている人達がいる。テレビ、新聞、雑誌などのメディアは、いかにも口当たりの良い偽善を、垂れ流し放題である。
では、問う。あの時にあれほど命がけで、日本国のみならず前アジアをカバーしようとして日本が戦わなかったら、今の世界はどうなっていたのか・・・。言わずもがなである。

今、しかし、この国は、徐々にではあるが、確実に変わろうとしている。真実の検証、憲法の改正、伝統への回帰、軍備の強化、等々。こう書くと、すぐに「軍事主義化」だと叩かれる。だが、心ある人々の目には、そうではないことは明白であろう。
この美しい国と国民を守り、アジアの発展と、世界の平和を創造し、実現していくという、高邁な理念を私達の父祖の多大な犠牲を礎にして揚げ続けていく事が、全人類の一員としての日本人の使命なのである。たとえこの先何百年かかろうとも。

HOME